12. 小蒸気船から安治川に転落 1910年(明治43年)

桜セメントは、大阪港に臨む埋立地にあり、通勤するのに、毎日築港の桟橋から出る専用の小蒸気船に乗った。
その日も、ほこりの多い工場から解放されて、帰りの船に乗り、舷(ふなたば)に腰をかけていた。真夏のこととて、そよそよと吹いてくる潮風がなんとも快い。夕日が沈むのをうっとりと眺めていたときである。そばに来た船員が足をすべらし、彼に抱きついた。その瞬間2人は安治川に転落し、水中深く沈んだ。
彼は何が何やらわからず、もがきにもがいて、水面に顔を出した。見れば、小蒸気船ははるか向こうの方である。船は気づいたのか、徐々に反転してきている。彼は無我夢中で泳いだ。それからどのくらいたったろうか、彼はようやく船に助け上げられた。
幸い真夏のことでもあり、多少とも泳ぎの心得があったから、溺れずにすんだ。これが水の冷たい冬だったら、到底助からなかったろうと、つくづく運の強さを喜んだものである。