大分

昭和45年、アメリカとヨーロッパが合体した大分工場。

「九州の発展のためにお引き受けしましょう」――大分のみなさまと私たちの挑戦は、創業者松下幸之助の一言から、はじまりました。

昭和29年。当時の九州地方は、主要産業である石炭産業が斜陽化しており、地域経済の再建のために新たな産業の誘致が求められていました。そんな中、地元の県と市の方々が、私たちの大阪本社を訪ねてこられて言いました。「いまは使われていない工場を使用して、地域開発のために協力してもらえないだろうか」。当時の日本は復興期にあって、使われないままでいる土地が、たくさんあったのです。力になりたい。そう思う一方で、当時の九州は、家電工場が必要とする関連工場がまったくと言っていいほど育っていませんでした。そのため、最初はお断りをいたしました。しかし翌年、再び本社にお越しになった県と市の方々から「地元の発展のために」と再度依頼を受けた時に、松下幸之助は言いました。「地元のみなさんがそれほど熱心におっしゃるならばわれわれもみなさんの熱意にお応えしないわけにはいきません」。それに続いたのが冒頭の言葉でした。それはやがて『九州各県にひとつずつ工場をつくる』計画へと発展。こうして昭和45年に完成したのが、大分工場でした。アメリカ式生産システムとヨーロッパ方式の精密加工技術が合体したユニークな生産体制の確立をめざしたこの工場は、地元のたくさんの方々のお力をお借りしながらマイクロチューナーや小型スピーカーを生産。昭和56年に松下幸之助が訪問した際には「自動機械の導入により、省力化・省人化が相当進んでおり、従業員のみなさんの努力と熱意が私の心にひしひしと伝わってくる思いがいたしました」と言葉を残しました。それからこの工場は、平成27年にその役目を終えるまで、長年にわたって大分県と日本の発展のために稼働し続けました。

大正7年の創業以来、私たちがここまで歩んでこられたことは、大分のみなさまをはじめとする、たくさんの方々のご愛顧とご信頼の賜物と心より感謝申し上げます。これからも変わらぬご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

おかげさまで、パナソニックは創業100周年を迎えました。