21. 改良ソケットの製造販売に着手 1917年(大正6年)

独立に際し、幸之助の手元にある資金といえば、約7年間勤めた退職慰労金33円20銭と、会社の積立金42円、それに手元の貯金20円余、それらを合わせてもわずかに95円余りである。これでは機械1台買うことも、型1つつくることもできない。無謀な話であった。

しかし、彼は将来への希望に燃えていた。ちょうど夫人の弟、井植歳男氏が郷里の高等小学校を卒業したのを機に、呼び寄せた。大阪電灯時代の同僚、林伊三郎氏と森田延次郎氏の2人が「松下君がやるなら、われわれも手伝おう」と言って、仲間に入ってくれた。時に、幸之助満22歳、夫人満21歳、井植氏満14歳であった。

工場は、当時生活していた大阪市東成区猪飼野の借家の2畳と4畳半のうち、4畳半の半分を落として土間にして使ったから、2畳の1間が寝室となった。

そんな状態で始めたが、肝心の煉物の製法がわからない。どこも秘密にして、教えてくれないのである。煉物工場をたずねて、その周辺から、原料のかけらを拾ってきては研究し、やっと待望のソケットができたのは、10月半ばのことであった。