後援:文部科学省 国連広報センター 日本ユネスコ国内委員会 全国市町村教育委員会連合会 全国高等学校メディア教育研究協議会
――ブラジル人労働者の繰り返られる日常を綴った「CYCLE OF LIFE」(2017年度)という作品でKWN特別賞を受賞しました。KWNに参加したのはどうしてですか?
グスタボ(敬称略) 僕の学校でKWNのワークショップが開かれた時に、映像講師をしている朴さんと知り合いました。なぜか僕のことを朴さんは気に留めてくれて、頻繁ではないのですが、メールのやり取りを続けていたところ、ある日、朴さんから「映像を作ってKWNに応募してみないか」と連絡がきたんです。現在、映像クリエイターをしている兄がいて、当時から映像に長けていたので相談をしたら、手伝ってくれることになりました。
KWNの詳細を知らないままスタートして、最初は30分ぐらいの映画を作るものだと思っていました。だからもともとの構成も、同じ駅を利用する労働者、サラリーマン、学生の3人の日常を綴る予定だったんです。
3日間かけて3人の映像を撮り、お互いに知らない同士の3人が並ぶ駅のシーンを撮ったりしていたら、朴さんから「ごめん! 作品は5分以内なんだよね」と。「マジッすか」と思いましたが、仕方がないので5分に編集することにしました。でも結局、3人の日常を5分で収めることが難しくて、僕が演じた労働者のパートだけで作品を完成させたんです。
――そんな裏話があったとは。もともと映像制作に興味があったのですか?
グスタボ はい。その頃はブラジリアン柔術も習っていて、アクション系の俳優を目指していたんです。また、朴さんがワークショップで学校に来た時はすでに、僕はSNSで動画配信をしていました。
他の生徒たちはワークショップにあまり興味を示していなくて、「せっかくプロのカメラマンが学校に来てくれているのにもったいないな」と感じていたのを覚えています。
映像に興味があることを朴さんに話したら、僕の配信動画を観ながら、映像制作には何が大切かなど、いろいろ教えてくれました。その後、学校を卒業してからですが、朴さんが僕の学校を舞台に「ムイト・プラゼール」という映画を撮ることになり、映画にも出演しています。
――KWNにどうして参加しようと思ったのですか?
グスタボ ワークショップに参加するまではKWNのことを知りませんでした。動機としては、動画撮影と俳優に興味があって、朴さんの話に刺激されたからだと思います。
「CYCLE OF LIFE」は特別賞をいただいたのですが、入選すると表彰式に呼ばれてトロフィーをもらえることも知らなかったので、すごく嬉しかったです。同時に、KWNの規模と反響の大きさに驚きました。
――撮影はどうでしたか?
グスタボ スタッフは全員ブラジル人で、同じ学校の生徒4人と兄の計5人でした。
あの映画は、目的をもたない人の日常を象徴しています。やること、やりたいことが見つからなかったら、自分の人生、毎日が同じサイクルになってしまう。それが何年続くかわからない寂しさや悲しみ、不安をセリフのない淡々とした映像で表現しています。撮影した時はまだ学生でしたが、父が脳梗塞で倒れて、家計を助けるために工場でも働いていました。だから撮影時は、自分自身の想いを投影している感覚でした。
――友達同士での作品作りは楽しかったでしょうね。
グスタボ めちゃくちゃ楽しかったです。撮影現場ではケンカというか、いい作品にするために、それぞれ主張があったので意見のぶつけ合いもありました。絵コンテだけで台本がなかったのですが、僕の実家に集まって、「労働者、サラリーマン、学生になりきって演じよう」と話し合ったりもしました。
カメラを回してあとは演者任せだったんですが、駅でサラリーマン役と学生役がぶつかるシーンで、カバンの中に入っていた紙をホームにばらまいてしまったんですね。そうしたら、見ず知らずのおじさんが一緒に紙を拾ってくれて。そんなエピソードもありました。
――KWNの目的の1つに、自分たちの考えを、映像を通して伝えるというのがありますが、伝わったと思いますか?
グスタボ どうでしょう。自宅と会社、自宅と学校だけの人も少なくないと思うので、たぶん共感してくれた人は多かったのではないでしょうか。「夢をもってください。やりたいことを見つけてください。そうしないとルーチンなつまらない人生になりますよ」というメッセージは、伝わっていると信じます。
――KWNの活動が将来に何か影響を与えたと思いますか?
グスタボ 昔は動画撮影に興味があったので、刺激を受けました。結局、映像系の仕事とは関係のない職業に就きましたが、学校を卒業し、工事現場で働いていて、お金のことだけを考えたら、そのまま現場で働いていた方が稼げると思います。でも、その時点で格闘家になりたいという夢があって、現在はその道に進んでいます。「CYCLE OF LIFE」を撮ったことで、人生を見つめ直したというか、自分がやりたいことは何かを考えるきっかけになったことは確かで、そう考えると、少しは影響があったのかもしれません。
また先日、一緒に映像制作をした友達の1人と久しぶりに会いました。彼は今、映画関係の仕事に就いています。KWNに誘った時は、それほど映像制作に興味をもっていなかったんですが、彼から「あの時、誘ってくれなかったら、今の仕事に就いていなかったと思う。だからお前には感謝しているんだよね」と言われました。それを聞いて僕も嬉しくなりました。
――友達にも影響があったのですね。
グスタボ 自分はもう映像制作はしていませんが、もともと動画や写真が好きですし、あの時の経験を活かして、趣味がてら今後また映像を作るかもしれません。撮影現場の雰囲気や、カメラの扱い方、映像制作の考え方は今も覚えているので、いつでも大丈夫です。
――KWNに参加して良かったですか?
グスタボ 良かったと思います。実はADHD(注意欠如・多動症)の症状があって、頭の中で同時にいろいろなことを考えてしまうため、落ち着きがないというか、注意散漫だったりしたんです。でも映像制作の時は、「集中しなきゃ」と意識していたら、カメラを回すなど、1つのことに集中できるようになったんです。撮り終わるまで集中できたことでそれが自信になりました。今振り返ってみて、動画制作の経験がなかったら、まだ症状に悩んでいたかもしれません。
――これからKWNに参加しようと思っている人たちにアドバイスをお願いします。
グスタボ 義務や強制ではないので、気軽に楽しむことが何よりも大事です。また、上手く撮ろうというよりは、想いをそのまま撮っていけば、観てくれた人にその想いは伝わると思います。最初から完璧を目指すのではなく、わからなくなったらKWNの講師の方に聞いてください。そうすれば納得のいく作品が撮れると思います。
――KWNに応募した映像作品「New friend」は、松野さんが高校3年生の時に6人で制作したと伺いました。
松野(敬称略) 1つ上の代の先輩たちが、2017年度に「connect」という作品で初めてKWNに参加し、特別賞をいただいたのです。その作品を授業で観て、「自分たちが作るなら、どう描くか?」という話で盛り上がり、「私たちも参加しよう」という流れになりました。 参加が決まった時は、「先輩たちの映像作品を超えたい」とチームで気持ちが一つになり、私も賞を取れるように頑張ろうと思いました。
――テーマはどうやって決めたのですか?
松野 当時はKWNから17項目のテーマが提示されていました。そのテーマから1つでも決めてしまうと型にハマってしまうと思い、自分たちで考えることに。最初は脚本担当が2人いて、お互いに脚本を書いてメンバーに読んでもらいました。結果的に私の脚本が選ばれて、そこから本格的に作り込んでいったのです。
頭の中では構想ができていたのですが、絵コンテのようなものを作って仲間に共有するまでが大変でした。特にセリフはないので、「こう動く」と、書いたところでその動きを理解されにくいところがあって。なので、演技のたびに、毎回、私が実演して伝えるという手段をとっていました。
――脚本だけでなく、監督や主演も担当することが決まった時はどう思いましたか?
松野 もともとは脚本担当だけだったのですが、KWNの前から授業などでも映像制作を行っていて、私ともう1人が主演をやっていなかったので単に順番で主演に決まっただけなんです。監督については、絵コンテの説明で実演していくうちに、「華奈が仕切った方がスムーズだから監督ね!」と。3つも掛け持ちした経験がなかったので、最初は「できるか!?」「期日までに完成させられる!?」と緊張しました。
――いちばん楽しかったのは監督ですか?
松野 いいえ、脚本です。監督として「演技やり直し」と簡単にメンバーに言うのは難しく、やりにくさを感じていました。主演も似たような感じで、他に対して示しがつくような演技ができるかと不安でした。でも脚本だけは、「自由に華奈らしく書いて」と言われたこともあり、楽しく作業ができました。
――映像制作のどんなところが松野さんの心に響いたのでしょうか?
松野 中学時代の弁論大会で1位を取ったことがありました。その時に「人に対して何か訴えるモノを作れないかな」と漠然と感じて。作文コンクールでも同じような感情が芽生えた矢先、KWNで映像という形で訴える経験をしたのです。映像は、聴覚障がい者でも楽しみやすいというのが響いたのだと思います。
――「New friend」は、音声によるセリフをはじめ、ナレーションも字幕も使わず、映像だけで想いを伝える作品でした。実際に制作されてどうでしたか?
松野 「音も字幕もない、けれど観た人に伝わる作品」を目指すにあたり、どういうアングルの画が撮れたらいいのかなど、チームみんなでいろいろと話し合っていた時のことは、今でもよく覚えています。「New friend」は、自分たちの「世界」と似ている設定のためか、想いも募り、「あの画がほしい、この画がほしい」と、みんなで盛り上がり楽しい時間でした。
――「New friend」は高校生部門で最優秀作品賞を受賞し、反響も大きかったですね。
松野 審査員の方が1週間で手話を覚えて話しかけてくださり、周りからも「心動かされた」と感想をいただいたことが本当に嬉しかったです。
私の中では、何か1つぐらいは賞を取れるだろうという気持ちはありました。でもまさか、最優秀作品賞をいただけるなんて。なかなか実感がわかず、2年後ぐらいに後輩からKWNに参加したという報告を受けて改めて、「あぁ、あの時、私たちは最優秀作品賞をいただいたんだ」とジワジワと実感がわいた感じでした。
卒業後に卒業アルバムを取りに学校へ行った時、廊下にデカデカと表彰式の写真とトロフィーが飾ってありました。職員室に行く途中、すれ違う先生たちから「あの時はおめでとう」と言われたこともいい思い出です。
――映像制作を通して、何か変化や成長を感じましたか?
松野 「報・連・相が大事」とよく言われていますが、誰がどれくらい何を把握しているのか、それをリーダーがまず把握することが大事だと学びました。チーム内ではそれぞれが自分はどう動くべきかを考え、積極的に行動するようになったと感じました。
また改めて考えると、KWNに参加したことで、責任感が養われましたし、段取りを組むのが得意になったような気がします。今は会社で経理事務を任されていますが、細かい事務作業をこなせているのは、もしかしたらその時の経験が少しは役立っているのかもしれません。
――KWNに参加したことが、松野さんご自身に何か影響を与えましたか?
松野 「本格的に脚本を制作してみたい」と、将来を考えるきっかけにもなったので、影響は受けたと思います。実際、高校卒業後はシナリオの専門学校に進み、現在は、事務職ではありますが、映像制作会社に勤務しています。
事務職でも、企画はいつでも出していいと言われているので、今年は企画を通してドラマを作りたいと思っています。
――ぜひ、実現してください。
松野 将来的には、作品を通じて、聴覚障がいをもっている方が、何かやりたい時に「自分には無理だ」と思わずに、生き生きと参加していける社会を作っていけたらと思います。
学生時代にまわりを見ていて、「私たちは他の人よりスタートラインが後ろ」と思っている人が多かった印象でした。私自身もそうでした。何をするにも一歩後ろに引いてしまうというか、やりたいことをなかなか実行できないというか。別に私たちは特別でも何でもないと気付いて、そこを当たり前にしていきたいです。
――松野さんにとって、KWNの存在は大きかったようですね。
松野 そうですね。自分たちの見ている「世界」を自由に表現していいのだと教えてくれたのがKWNです。
――そんなKWNに何かリクエストはありますか?
松野 例えば、言葉がなくても楽しめる映像作品に対して、「サイレント映画賞」といった賞が設定されたら素敵だと思います。
――最後に後輩へメッセージをお願いします。
松野 自分たちが心動かされるものは何か、それを考えてみてください。自分たちが心を動かされないものに、他の人たちが心を動かしてくれるはずはありません。「面白い」「伝えたい」という感覚を大事にしてください。
「あと5分で僕たちは。」
(2018年度/三重県・県立松坂高等学校)
「はっきりと内容が理解できたこともそうなのですが、繰り広げられる登場人物の会話の面白さが伝わってきたのが印象に残っているからです」
2018年度 最優秀作品賞受賞作品
東京都立立川ろう学校
「New friend」
――大平さんは、KWNがワークショップを小笠原諸島の母島で開催する際、キッズレポーターとして参加したそうですね。
大平(敬称略) はい。2016年、中学2年生の時です。亀岡先生の働きかけで、それまでキッズレポートなどさまざまなイベントに参加させていただいてきたのですが、母島に行ったのも、その一環でした。最初は9月に行く予定だったものの、台風の影響で延期になり、3月下旬に亀岡先生と、同級生の丹能(萌絵)さんと3人で参加しました。
――どんなことをしたのですか?
大平 母島の魅力を伝える映像作品を、母島の子どもたちと一緒に作りました。撮影と編集はプロのカメラマンの方にご担当いただいたのを覚えています。小笠原に関するナレーションを撮ったり、島に着いてからは島の人たちにインタビューをするなど、多くの人たちと交流しました。ワークショップにも参加しましたし、島を案内していただくなど、充実した時間を過ごしました。
――中学生でよく母島に行くのを決断しましたね。
大平 当時、小笠原諸島はもちろん、母島がどんなところなのか知りませんでした。亀岡先生に、船で25時間かかるとだけ言われて、「面白そうだ」とすごくワクワクしたのを覚えています。
――滞在中の出来事で思い出に残っていることは何ですか?
大平 いちばん印象に残っているのは、最後の日の夜です。山へ星空を見に行ったのですが、寝転んで夜空を見ると、まさに満天の星。流れ星も見えて、あの星空の美しさは今でも目に焼き付いています。
あとは、港に着いた時に「おかえりなさい」と、島の人たちから言われたこと。初めて来た場所なのに、島の人たちが家族のように出迎えてくれたのは印象に残っています。帰る時は「いってらっしゃい」と送られるのですが、本当に素敵な島だったので、もう一度行きたいと思いました。その時はちゃんと「ただいま」と言いたいです。
――島の人や子どもたちとの交流はどうでしたか?
大平 母島に着いて数時間も経たないうちに、公園で島の子どもたちと鬼ごっこやだるまさんが転んだをして遊んで。すごいスピードで打ち解けられたのが思い出に残っています。本来は、母島の魅力をレポートする仕事があったのですが、その役目を忘れてしまうほど心から楽しんじゃいました。中学生だったからこそ、すぐに仲良くなれたんだと思います。
――小笠原の旅は、大平さんに大きな影響を与えたのではないですか?
大平 一気に視野が広がったと思います。家族以外と遠くへ行くのも、初対面の方のお家に泊まるのも初めてでした。ホームステイ先のご家族の方たちとは今もつながっていて、去年、東京に来られた時も一緒にご飯を食べました。一期一会というか、島の方たちは人とのつながりをすごく大事にされているんだと実感でき、私も人とのつながりを大切にするようになりました。
――小笠原での経験もそうですが、亀岡先生のもと、放送委員会での活動も、大平さんにとって影響は大きかったのではないですか?
大平 私たちナコイチ(勿来第一中学校)の作品はドキュメンタリー調が多かったんです。そのため、1本の映像作品を作るのに、いろいろな場所に取材に行き、大人相手にインタビューをしました。ボランティア活動に参加することもありました。私はもともと内向的な性格だったのですが、そうした活動を通して徐々に肝が据わっていったと思います(笑)。
――亀岡先生が、「大平さんは1年生の時は目立たない子だったのに、だんだん前に出るようになった」とおっしゃっていました。
大平 自分でもそう思えます。中学3年の時は朗読アナウンスで好成績を残せましたし、堂々と人前で話せるようになりました。
――KWNではどの作品にかかわったのか教えてください。
大平 中学2年の時がパラスポーツを題材にした「ザ・チャレンジド~違うけど同じ~」で、中学3年になって制作したのが「江戸っ子の心意気」。初めてドラマ調の作品に挑戦したのですが、残念ながら佳作でした。
――そもそも、どうして映像制作を始めようと思ったのですか?
大平 もともと放送委員会に入って校内放送や運動会のアナウンスなどをしているうちに、話すことが楽しく感じるようになったのです。コンテストメンバーと呼ばれていた、映像作品を作って大会に参加する人たちのことは知っていましたし、亀岡先生から声をかけていただいて、面白そうだったのですぐに「やります」と返事をしました。
――「江戸っ子の心意気」ではどんな役割を担当したのですか?
大平 男の子の役を演じたり、カメラをまわしたり。あとは、テーマを決めるネタ会議を行うのですが、日常で気になっていることや、テーマにできそうなアイデアを出していました。
――どの作品にも思い出があると思いますが、今振り返ってみていかがですか?
大平 2014年度最優秀作品賞に選ばれた「走れ!ナコイチ~故郷のために~」では、メンバーになりたてだったので、地元の復興イベントに参加する程度でした。それまでは、震災のことをあまり自分事として捉えていなかったのですが、イベントに参加し、いろいろな方からお話をきいていくうちに、自分事として捉えられるようになりました。
――3年間続けられたということは、やはり楽しかったのでしょうね。
大平 亀岡先生は普段からカメラをまわしてくれました。まさに、私たちの活動の全ての瞬間を映像に収めてくれたのです。それを卒業の時にDVDに焼いてくれて、お陰で両親も私がどんなことをしていたのか知ることができましたし、亀岡先生が撮ってくれた映像を見返すことで、達成感というか、「やってよかった」と、私も改めて思えました。大変だな、辛いなと思ったことは一切なく、とにかく楽しみながら活動し、その楽しさの延長線で素敵な作品が完成したという感じです。
――いい思い出ですね。KWNでの活動が、自身に何か影響を与えたと感じますか?
大平 先ほども話しましたが、物怖じしないようになり、大学に入ってからも、プレゼンやディスカッションの際に堂々としゃべれるようになりました。 また、大学を卒業したらイベントプロデュースの会社に就職をするのですが、毎日同じ仕事をするのではなく、自分で考え、想像するクリエイティブな仕事なので、映像制作との共通点もあると思っています。
――KWNの意義とは何だと思いますか?
大平 人と出会う機会が増えることです。中学校の中だけで生活をしていたのが、映像制作を通じていろいろな人と接し、私自身も視野が広がりました。それはかけがえのない経験だと思います。
――最後に後輩たちへメッセージをお願いします。
大平 とにかく、いろいろなことに挑戦してください。私も中学時代、中学生ではできないことをたくさん経験させていただきました。大人の人たちも、中学生から頼まれると協力してくれます。学生の特権をうまく活用して、チャレンジしてほしいです。
「My True Heart」
(2015年度/沖縄県・昭和薬科大学付属高等学校)
「私たちの作品とは違うドラマ仕立てだったのですが、内容が素晴らしくて、この作品の影響で、次の年は“ドラマ系の作品に挑戦しよう”となったのです。物語はモノクロで展開していくのですが、急に鮮やかな映像になる作品でインパクトもありました」
2016年度 佳作作品
福島県・いわき市立勿来第一中学校
「江戸っ子の心意気」
――KWNがワークショップを小笠原の母島で開催する際、亀岡先生たちと一緒にキッズレポーターとして参加したそうですね。
丹能(敬称略) 中学2年の3月に、亀岡先生と、同級生の茉奈ちゃん(大平茉奈さん)と小笠原諸島の母島に行きました。福島市に住んでいたある家族の方々が、震災で母島に疎開していて、私はそのお家にホームステイしたのです。その家の子どもが偶然にも私と同じ誕生日だったため意気投合しました。ホームステイは初めてだったのですが、温かい家庭で、私はホームシックにもならず、自然体で過ごせたのを覚えています。
人も自然も本当に素敵な島で、私と茉奈ちゃんは美術部だったので、当時、感じたことや見た風景をスケッチブックにたくさん描き残しました。その絵は今も大事に持っています。
――なぜ小笠原に行こうと思ったのですか?
丹能 小笠原諸島は世界自然遺産に登録されていますが、私はもともと世界遺産に興味がありました。また当時、福島は震災の大きな影響を受けていたので、他の地域がどんな状況なのか見てみたいと思ったのです。小笠原に行ったらどんな自分に出会えるのか、そんな期待もありました。
――ご両親はすぐに承諾してくれましたか?
丹能 中学1年の時に父が他界し、母子家庭でした。当時の私はふさぎ込んでいて、そんな時に放送委員会の茉奈ちゃんや先輩たちの明るく堂々とした姿を見て、私も同じようになりたいと思ったのです。亀岡先生に相談をし、放送委員会に入った経緯を母は知っていたので、「いい経験をして成長してきなさい」と後押ししてくれました。
――実際に母島に行ってどうでしたか?
丹能 フェリーでは船酔いが酷く、ずっと寝ていた記憶しかないのですが、島に着いたら美しい大自然に圧倒されました。最終日には、流れ星を先生と茉奈ちゃんと3人で見ることができ、自然の素晴らしさを感じる場面が多々ありました。
自然を残すには人間の力も大きく影響すると思います。この島に住む方たちは、本当に小笠原のことを大好きで、みんな島自慢ができるんですね。お話を聞いて、自然と人間が共生しているすごく素敵な島だと感じました。
当時の福島はいろいろな偏見や差別を受け、私自身も自分を肯定できない日々が続きました。そんな私に島の方たちは温かく接してくれましたし、島には1週間ぐらいしか滞在しなかったにも関わらず、同世代の子どもたちも、大切な友達として接してくれて嬉しかったです。
――キッズレポートはどうでしたか?
丹能 ホームステイ先の子にインタビューした際に、「福島も小笠原もどちらも大好きな場所で、私にとってふるさとです」という彼女の答えを聞いて、「ふるさとが2つなんてこんな視点もあるんだ」と印象に残りました。
――福島に帰ってから、自分自身が成長したと実感できましたか?
丹能 小笠原に行く前までは家を離れたことがなかったので、他の場所に行っても自分は協調性をもってきちんと対応できるのだと感じました。何よりも、出迎えてくれた母に「表情が明るくなったね」と言われたのを覚えています。私はあまり意識していなかったのですが、改めて当時の写真を見ると、父のことがあって、暗い表情をしている写真が多かったんです。でも人や自然の力によって、自分らしく過ごせる環境が小笠原にはありました。だから変われたのかなと思います。
――影響は大きかったようですね。
丹能 観光を含め、島の人々や生活に関心をもつようになり、高校時代はカナダの島に留学。大学は観光学部に入学し、ヴェネツィアに約1年間留学をして、世界遺産としての島の在り方を勉強しました。インターンシップで東京都の神津島に行き、どうやって島を盛り上げていくかをテーマに活動するなど、将来的には地域の魅力を発掘し、発信するような仕事に就きたいと思っています。こうしたことに興味関心をもつようになった原点は、やはり小笠原だったのかなと思います。
――映像制作についてはどうですか?
丹能 中学時代は茉奈ちゃんと一緒に放送委員会に所属。私は高校でも放送部に入り、映像制作を続けました。ですので、KWNに参加したのは、中学2年から高校2年までの4年間です。
中学時代、ネタ会議というのがあって、それぞれ30個ぐらいアイデアを持ち寄って話し合うんです。ブレインストーミングではないのですが、みんなで話し合うのは初めての経験でした。普段からアンテナを張って、ニュースでネタになりそうなことがあればネタ帳にメモをするなど、日常生活でも放送委員会のことを意識していた感じです。
中学3年の時は「江戸っ子の心意気」というドラマ仕立ての作品を撮りました。私たちは作品を作ることでKWNに恩返しをしたい気持ちが強く、試行錯誤を重ねて制作したのですが、結果的には佳作でした。でも、制作過程で得られたものはたくさんあって、集大成として取り組めたのは良かったです。
――中学2年の時の「ザ・チャレンジド~違うけど同じ~」はどうでしたか?
丹能 車イスバスケットを題材にした作品で、私はレポーターを初めてやりました。緊張して、頭の中で何回もイメージトレーニングをして挑んだのですが、いざ始めると、いろいろな人の話が聞けて楽しい気持ちが勝りました。亀岡先生は、「やってみなければわからない」「やってみて経験につながる」と、どんな場面でも「いってらっしゃい」と背中を押してくれましたが、やはり経験はすごく大事なんだと実感できました。
――そうした経験が今の自分にどう影響していると思いますか?
丹能 自分を通して何か発信することが、私にとってはすごく学びになりました。この経験を経て、現在、大きく3つの活動を行っています。
まず1つ目が、スポーツ新聞記者として大学の体育会機関紙で広報の役割を担っていること。2つ目が、主に福島を対象とした地域活性化の取り組み。復興から発展に導くためには何が必要なのかを考えています。そして最後が教育について。ヴェネツィア留学での経験もそうですし、今は小中学生のロールモデルとして、大学生を家庭教師として派遣するプロジェクトを運営しています。
もし放送委員会に入っていなかったら、今のような活動はできていなかったと思います。中学時代の支えになってくれたのが亀岡先生ですし、茉奈ちゃんたち放送委員会のメンバーです。高い目標に向かって一緒に頑張った経験が、今の私につながっていると思います。
――ちなみに、高校時代の作品も入選したそうですね。
丹能 高校2年生の時に出品した「step by step.」です。たった1人のラグビー部に着目した作品で、監督と編集、撮影を私1人でこなしました。その時に活きたのが中学校の経験で、まず計画をしっかり立ててから実行に移すということ。また、私は「映像が人に与える感情とは何か」をテーマにしてたので、美しい映像を撮るための撮影技術についても、中学校時代の指導が役立ちました。
――KWNの意義とは何だと思いますか?
丹能 大会の目的としては、創造性やチームワーク、社会貢献性などがあると思います。やはり小中学生ぐらいから、社会に目を向けるのはすごく大事な経験です。それができるのがKWN。小中学生のうちに、どれだけ社会に目を向けられたかで、その後の人生も大きく変わると思います。
――最後に後輩たちに一言お願いします。
丹能 目標を見つけて真っ直ぐに頑張ってほしいです。映像制作で魅力的な大人たちと知り合うことで、いろいろな視点を得られると思いますし、そうした経験が大切です。ぜひ学外に目を向け、いろいろな活動を経験してください。
「My True Heart」
(2015年度/沖縄県・昭和薬科大学付属高等学校)
「途中までモノクロだった映像に、主人公が成長して何かに目覚めた瞬間に色が付きます。視覚的に観客を魅了する、映像の本質を捉えた作品だと感じました。こうした視点を持っていなかったので、これを学びとして、次の作品に活かしたいと思いました」
2017年度 ベストインタビュー賞
福島県・県立磐城高等学校
「step by step.」
――KWNに参加したきっかけから教えてください。
廣瀬(敬称略) 私たちの4つ上の放送部の先輩たちが、「Kanji」(2017年度)という作品でKWNに初めて参加しました。その後、放送部顧問の森秀文先生を中心に、SUNNY-STUDIOというチーム名で毎年参加をしています。私も放送部に入り、何の疑問も持たずにKWNに参加しました。
――放送部に入ったのはどうしてですか?
廣瀬 実は他愛もない理由で……。高校に入学してすぐに席が隣の女の子と仲良くなって、その子が放送部に入りたいというので、私も一緒に入りました。私は放送や映像にまったく興味がなかったのですが、入部後、映像制作にハマってしまったという感じです。
――映像制作のどんなところが、廣瀬さんの心を揺さぶったのでしょうか?
廣瀬 映像制作では、出演やナレーション、撮影、編集などいろいろ役割がありますが、その中でも撮影というポジションを任させる機会が私は多かったんです。自分が撮った映像が作品に使われ、それを評価されるのがすごく嬉しく感じるようになり、その気持ちがモチベーションとなって、より良いものを撮りたいという欲求が強まっていきました。
――KWNのことを知ったのは放送部に入ってからですよね。森先生から活動概要を聞いてどう思いましたか?
廣瀬 「もし小学生の時に知っていたら参加していたのに」と正直思いましたし、宮崎の田舎の学校に、プロが使うカメラを貸してくれることにも驚きましたね。
また、SDGsがテーマとしてありますが、言葉は知っていても、SDGsに対して近寄りがたいイメージがありました。でも作品を作るうえで、SDGsについて知る必要が出てきて、勉強していくうちに、それがどういうものか理解できて、SDGsについて深く考えるようになりました。
――「ボクのこと ワタシのこと」は、テーマや内容もさることながら、カメラアングルや演出も高く評価を受けました。
廣瀬 嬉しいです。基本的にはみんなで話し合いながら作ったのですが、私は主に撮影と演出を担当しました。SUNNY-STUDIOの固定メンバーは出演していた女の子も含めて女子4人。出演していた男の子は森先生のクラスの男子生徒です。小さい子どもなど、他にも本当に多くの方に協力してもらいました。
テーマについてはみんなで悩みに悩んで、決まるまでに数ヵ月ほどかかりました。撮影期間よりも考える期間の方がずっと長かったです。毎日話し合ってもアイデアが浮かぶわけでもないので、誰かがネタを出したら話し合う感じでした。KWNのホームページで、入選と佳作の過去作品を観ることができるので、それをみんなで見ながら話し合ったこともありました。
テーマを考えていた時期に、ちょうど高校の制服が男女どちらでも選べるようになったんです。それがジェンダー問題について考えるきっかけになって、テーマの方向性がだんだんと決まっていきました。放送室に集まってお昼を一緒に食べていた時だったのですが、誰かの何気ない一言に対して、誰かが意見を言う感じで。自然な会話だからこそ生まれたテーマだったと記憶しています。
――テーマが決まってからはどうでしたか?
廣瀬 尺が5分と短いので収まりきらない部分もたくさんあって、そこが悩みどころでした。森先生は、私たちのアイデアに対して気付きを与えるアドバイスをしてくれます。具体的な答えではなく、私たちが答えを探し出すまで、すぐ後ろで見守ってくれていた感じです。先生のおかげで作品のクオリティが上がったのは確かで、例えばエレベーターが上がるごとに年齢が上がる演出も、先生がヒントをくれました。
――廣瀬さんから見て、森先生はどんな先生ですか?
廣瀬 私が生きている中で、これ以上の恩師に出会えることはないだろうなというぐらいの存在です。人を成長させるのが天才的にうまい先生だと思います。何か失敗しても怒られないというか、そもそも怒られた記憶がなく、本当に自由に、私たちが楽しいままにやらせてくれました。その空気感は作品にも詰まっていると思います。
――映像制作の楽しさとは何ですか?
廣瀬 見通しがつかなくなって不安を感じることもありますが、それを乗り越えて完成させた時の達成感です。もちろん1人ではできないことですし、みんなで力を合わせて、協力しながら1つの作品を作り上げる楽しさも格別です。場をこなすうちに、最初はみんな撮られ慣れていなくてガチガチだったのが、だんだんと自然な表情を見せるようになっていくんですね。「いい表情が撮れた!」と思う瞬間もあって、友達が成長する様を見られるのも楽しかったです。
――廣瀬さんには大学生になってから、ワークショップもお手伝いしていただきました。KWNの活動は、子どもたちにどんな影響を与えると思いますか?
廣瀬 子どもたちはプロ仕様のカメラを見る機会も触る機会もまずないですし、普通はテレビや映画を観る側なのに、作る側になるのも本当に貴重な体験だと思います。また、作品を完成させるために友達と心が1つになっていく感覚はなかなか味わえるものではありません。そうやってコミュニケーション力や協働性、人間性が育まれていくのだと思います。
特に小学生ぐらいですと、友達といっても関係性は比較的浅いですよね。でも映像制作を一緒にやることで、普段一緒に遊ぶだけでは知ることのできない相手の思考や内面が伝わるなど、深い関係性が生まれる可能性が高いと思います。私も、「ボクのこと ワタシのこと」を作ったメンバーとは強い絆で結ばれました。
――廣瀬さん自身は、KWNに参加したことによる影響を何か感じていますか?
廣瀬 めちゃくちゃあります。実は私は、将来は撮影の仕事に就きたくて、日本大学芸術学部映画学科に進学しました。他のメンバーも影響を受けていて、主役の女の子は福岡の大学でラジオやパーソナリティーの勉強をしていますし、ナレーションを担当した子は声優の学校、編集を担当した子はアニメーションの専門学校に進みました。面白いように専攻もばらばらで、「将来またこの4人で集まって何か作りたいね」と話しています。
――インタビューの最初で「自分が撮った映像が使われて評価されるのが喜び」と語っていましたが、それこそ人生にまで影響するほどだったのですね。
廣瀬 カメラを触るのが好きとかそういうのではなくて、あのメンバーで作品を作った時間がたまらなく楽しくて。高校時代は、その楽しい時間を続けるために、KWNも含め、コンテストに作品を提出していた感じです。全員が、それぞれ自分がまかせられた役割を一生懸命頑張ってこなし、その結晶に対して、KWNで立派な賞もいただきました。
――入賞を意識していましたか?
廣瀬 コンテストに応募するからには、やはり少しは意識しました。でも「楽しく」をモットーにしていたので、それほど強くは意識していませんでした。「ボクのこと ワタシのこと」の時も、提出が締め切りギリギリで、それどころではありませんでした(笑)。
表彰式ではパナソニック社員賞を先に受賞したので、W受賞はないと思って、最優秀作品賞を諦めていたんです。最優秀作品賞をいただいた時、主役の女の子は爆泣きしていました。
――廣瀬さんにとってKWNとは?
廣瀬 放送部のメンバーと出会わせてくれて、一緒に作品を作るきっかけになった存在で、本当に感謝しかありません。
KWNには目に見えないいろいろなものをいただきました。現在は、映像制作の楽しさを知ってほしい、少しでもKWNに恩返しをしたいという思いから、ワークショップのお手伝いや、一次審査の審査員をやらせていただいています。将来的には、作る側だけではなく、KWNのように子どもたちにきっかけを与える側にもなりたいです。
――後輩たちにメッセージをお願いします。
廣瀬 作品を作り上げていく中で、すごい思い出ができます。その思い出は自分にとってかけがえのないものなるはずです。心が折れそうになる時もあるかもしれませんが、「自分は貴重な経験をさせていただいている」と意識すれば頑張れます。
「Open.」
(2016年度/福島県・福島県立磐城高等学校)
「耳の聴こえない女の子が主人公の最優秀作品賞を取った作品です。基本はサイレントですが、最後は女の子のセリフで終わります。その演出にインパクトを受けました。また音のない世界を映像で表現する点も、美しくすごくよかったです」
2021年度 最優秀作品賞受賞作品
宮崎県・宮崎日本大学高等学校
「ボクのこと ワタシのこと」