昭和4年の暮(く)れ、「松下電器製作所(まつしたでんきせいさくしょ)」の倉庫は、入りきれないほどの在庫(ざいこ)を抱(かか)え込(こ)んで悲鳴をあげていた。日本中がかつてない大不況(だいふきょう)にあえいでいるのをよそに伸展(しんてん)し続けていた事業も、ついに11月頃(ころ)から急速に悪化、製品(せいひん)の売れ行きが半数以下になってしまったのである。しかも、500人に達する人員を抱える所主たる幸之助は病床(びょうしょう)に伏(ふ)せていた。打開策(だかいさく)に思い悩(なや)む幸之助のもとに、現場(げんば)を預(あず)けられていた幹部(かんぶ)が、訪(おとず)れた。こうなったら、ひとまず従業員(じゅうぎょういん)を半減(はんげん)するより仕方がない。そう報告(ほうこく)する幹部を目の前にして、幸之助には一つの決断(けつだん)がひらめいた。
「決めた、ひとは一人もへらさん。日給も全額(ぜんがく)払(はら)うで」
「えっ」
「生産半減(せいさんはんげん)のため、工場は半日操業や。けど、そのかわり、休日も返上して全員で全力で在庫を売るんや!」
自分は、将来(しょうらい)ますます発展(はってん)するつもりで事業をしている。ならば、せっかく松下に入ってもらった人たちを一時の事情(じじょう)で手放すのは間違(まちが)った判断(はんだん)だ----。こう考えた幸之助に迷(まよ)いはなかった。解雇(かいこ)も覚悟(かくご)していた従業員たちはその心意気に感激(かんげき)し、燃(も)えた。その結果、翌年(よくねん)2月には倉庫を埋(う)めつくしていた在庫はきれいになくなり、一日中操業しなくては生産が追いつかないまでに回復(かいふく)したのである。