昭和36年、会長に退(しりぞ)いた幸之助は、活動拠点(かつどうきょてん)を京都の別邸(べってい)「真々庵(しんしんあん)」に移(うつ)し、会社運営(かいしゃうんえい)の日常業務(にちじょうぎょうむ)から離(はな)れた。ただし、社業の第一線から身を引いたといっても、「立志伝(りっしでん)(※1)中の人」として講演(こうえん)や取材の依頼(いらい)が殺到(さっとう)。相変わらず多忙(たぼう)な日々(ひび)を過ごしていた。しかし、空前の家電ブームも需要一巡(じゅよういちじゅん)で成長鈍化(せいちょうどんか)の時期を迎(むか)える。

昭和39年初夏、幸之助は報告書(ほうこくしょ)を眺(なが)めながら考え込(こ)んでいた。高度成長(こうどせいちょう)からくる業界の過熱投資(かねつとうし)や過当競争(かとうきょうそう)を少なからず憂(うれ)いていた幸之助は、長年の経験(けいけん)で、数字に表れた減収減益(げんしゅうげんえき)の兆しに、数字以上の事態(じたい)の深刻(しんこく)さ、構造的(こうぞうてき)行き詰(づ)まりを感じ取っていたのである。

やがて、営業所長(えいぎょうしょちょう)たちは会長からの突然(とつぜん)の号令を聞く。「営業所長が同道(※2)し、販売会社(はんばいがいしゃ)、代理店の社長さんに、一人残らずお集りいただきたい」----。場所は熱海である。

※1 立志伝(りっしでん):こころざしを立てて努力し、成功した人の伝記
※2 同道(どうどう):いっしょに行くこと