明治27年11月27日、松下幸之助は和歌山に生まれた。旧家(きゅうか)の末っ子に生まれ、なにひとつ不自由ない暮(く)らしが約束されているかに見えた幸之助の人生は、父が米相場(※1)に手を出し失敗したことで一変した。

小学校を中退(ちゅうたい)し、単身、親元を離(はな)れて大阪(おおさか)に丁稚奉公(でっちぼうこう)(※2)に出たとき、幸之助は満9歳(さい)。以後5年余(あま)り、幸之助は、もっとも多感な少年時代(しょうねんじだい)を丁稚として商家で暮らした。あまりにも大きな環境(かんきょう)の変化。しかし、幸之助はくじけることなく、子守から店の掃除(そうじ)・手伝いにいたる多くの経験(けいけん)を糧(かて)に、商売人としての心得を幼(おさな)い心に植えつけていった。同時に、その暮らしが幸之助生来の商才を目覚めさせた。ことに、子守のために三日分の給金でまんじゅうを買ったり、お客様に頼(たの)まれるタバコを買い置きして、おまけをもらったりと、お金を活かして使う才にすぐれた感覚を見せはじめていた。

少年時代を自分ではどうにもできない境遇(きょうぐう)(※3)の中で過(す)ごした幸之助だったが、今度は自分の志(こころざし)で人生を大きく変えていく。明治43年、開通したばかりの大阪の市電が「電気で走る」のを見て電気事業(でんきじぎょう)の将来(しょうらい)を予感した幸之助は、長年慣(な)れ親しみ、高い評価(ひょうか)もしてくれていた奉公先をあえて飛び出し、「大阪電燈(おおさかでんとう)」の内線係見習工になる。 このとき初めて、幸之助は「電気の世界」へ、その第一歩を踏(ふ)み出したのである。

※1 米相場(こめそうば):古い制度(せいど)の米の取引所で、米の売買でもうけを得ようとする取引
※2 丁稚奉公(でっちぼうこう):商店などに住み込んで、めし使われて勤(つと)めること
※3 境遇(きょうぐう):生きていくうえでの、めぐりあわせ