9月にはGHQ(※1)から生産中止命令(せいさんちゅうしめいれい)が出るなど、再出発(さいしゅっぱつ)に当たって困難(こんなん)はあったが、その命令も10月にはすべて解(と)け、全事業場(ぜんじぎょうじょう)で生産が再開(さいかい)された。しかし、すぐ大きな壁(かべ)が立ちはだかった。GHQによって「松下は財閥(※2)」と判定(はんてい)され、松下電器(まつしたでんき)が「制限会社(せいげんがいしゃ)」に、松下家が「財閥家族(ざいばつかぞく)」に指定されたのである。

社史から見ても、規模(きぼ)から見ても、業容(ぎょうよう)から見ても、財界(ざいかい)での位置から見ても、どこから見ても松下は「財閥」ではない。GHQは間違(まちが)っている。間違いはただすべきだ----。こう考えた幸之助は自ら東京のGHQ本部・財閥課(ざいばつか)に何度も足を運んだ。

「松下は財閥やない。この資料(しりょう)を見てください」
「マツシタさん、また来ましたか。何度来たってだめですよ」
「いいや。間違いがただされるまで、わしは何度でも足を運ばしてもらいます」


間違いは間違い----。指定を受けたほかの会社の社長が次々(つぎつぎ)と辞任(じにん)する中、幸之助は頑(がん)としてやめなかった。粘(ねば)り強い説明が功を奏(そう)したのか、GHQは昭和24年に松下家への「財閥家族」指定を、昭和25年に松下電器への「制限会社」指定を解除(かいじょ)した。その間、4年の歳月(さいげつ)が流れ、幸之助自身がGHQを訪(おとず)れた回数は50回を数えていた。

※1 GHQ:連合国軍が日本を占領(せんりょう)中にもうけた総(そう)司令部
※2 財閥(ざいばつ):一族の家族的関係のもとに結合した会社の連合体