松下幸之助歴史館
松下幸之助94年の生涯で、幾多の苦難を乗り越える中に見出した、「行き方・考え方」。
その“道”をたどりながら、松下幸之助の経営観や人生観を学ぶことができます。


施設紹介
松下幸之助の歩んだ94年の道を追体験できます。
幸之助のことば、肉声に触れて頂きながら、
その幾多の苦難を乗り越える過程で見出した、
幸之助の経営観・人生観に触れることができます。

松下幸之助が歩んだ94年の「道」
松下幸之助は1894年11月27日、和歌山県和佐村の裕福な農家に誕生しました。
しかし幸之助が4歳の時、父が米相場で失敗し一家は没落。幸之助は小学校を中退し、わずか9歳で丁稚奉公に出ることになります。
幸之助は大阪船場の宮田火鉢店、五代自転車商会で丁稚奉公、商道の基本、商人としての心構えを学びます。そして15歳。街を走る路面電車を見て電気という新時代のエネルギーに惹かれていきます。
1918年3月7日、松下幸之助は妻 むめの、義弟 井植歳男の3人で松下電気器具製作所を創業。改良アタッチメントプラグ、二股ソケット、自転車用砲弾型電池式ランプ、電熱器、ラジオ等の新規事業を次々に立ち上げました。
1929年に綱領・信条を制定、そして1932年の春、幸之助は産業人としての真の使命を自覚。これを命知と呼び、全店員にその熱き思いを共有すべく第1回創業記念式を挙行。翌1933年、門真に拠点を移し業容を拡大していきました。
戦争を迎え、当社も軍需生産への移行を余儀なくされました。終戦後、幸之助は即刻民需生産を再開。会社解体の危機、幾多の困難を乗り越えながら、幸之助は人間と社会のあり方を追求するPHP研究所を設立しました。
終戦後の苦境を脱し1951(昭和26)年、初渡米。豊かな暮らしぶりを目の当たりにし、日本でも実現させようと技術力強化のためフィリップス社と技術提携。1950年代後半、日本の家庭電化を牽引していきました。
1961(昭和36)年、会長に就任しPHP研究を再開。一方、高度成長の行き過ぎを警戒した日銀が金融引き締めを実施。不況と電化製品の一巡が重なり危機的状況を迎えますが、家電流通を改革、再び事業を軌道に乗せます。
創業50周年を経て幸之助は社会貢献活動に注力。1973(昭和48)年、78歳で相談役に就任し松下政経塾設立、鄧小平副首相の求めに応じた中国の発展、日本国際賞創設等、より良き日本、より良き世界の実現をめざす情熱は尽きることがありませんでした。

建物について
1933(昭和8)年、大阪・門真の地に構えた
当時の第三次本店の建物を忠実に再現しています。
当時としては最新の西洋の建築文化が採り入れられた
この建物の随所に、幸之助のこだわりが感じられます。
