人を育てる──企業の理念から学び、見えた未来。
人びとの生活を向上させる役割を担いたい。
終始笑顔が絶えなかったケックさん(写真左)とガンさん。
○ケック・カイ・ジュンさん
2003年認定→北海道大学入学(大学院情報科学研究科・生命人間情報科学専攻・生体計測研究室)→修了後、松下電器産業(当時)に就職→現在Panasonic Industrial Devices Singapore Pte. Ltd.勤務
○ガン・リー・フィさん
2005年認定→徳島大学大学院入学(先端技術科学教育部・システム創生工学専攻)→修了後、日本で就職→現在日本企業のシンガポール現地法人の設立・運営に携わる
今回、シンガポールからリモート取材に応じていただいたケック・カイ・ジュンさんとガン・リー・フィさんご夫妻です。共にマレーシア出身でマレーシア工科大学の学生でした。しかし、お二人が出会ったのは日本。パナソニック スカラシップ奨学生として日本に留学し、北海道と徳島県という別々の土地で学んでいる時でした。それぞれが描いていた別々の夢が、海外で学びたい、日本で学びたいと進み続けた先で交差し、今、お二人は、シンガポールでそれぞれの仕事を通じてアジア各地を結び付ける役割を担っています。技術や知識も必要だが、人としての成長、人びととのコミュニケーションを大切に思う人生観こそ何より大切だと二人は声を揃えます。このことが、日本留学で学んだことで得た「成果」と語る二人の道のりを振り返っていただきました。
日本留学で見えてきた自分の将来
ケックさんは、マレーシア工科大学でメディカル・エレクトロニクス(医用電子工学)を学び、将来は日本に留学したいと考えていました。当時、周囲で人気だったのは、英国やシンガポール、オーストラリアなど英語圏の国々。日本は、言語の壁が高いという印象が一般的だったそうです。しかし、ケックさんには、日本に対する興味・関心が以前からありました。
ケックさん:私たちの世代は、80年代にアニメ、90年代にTVドラマで日本の文化に触れました。特に中学生の頃には日本のドラマがとても流行していて、私は「いつか行ってみたい」とずっと思っていたのです。大学では、日本語学習の科目も取り、その先生から日本で学んだ経験談を聞き、「留学」先としての日本を考えるようになりました。
そうした漠然とした思いはあっても、大学卒業という現実が迫り、ケックさんは英国と米国を候補に留学の準備を進めていました。そんなある日、ケックさんの父親が新聞に掲載されたパナソニック スカラシップの募集案内を見つけ、教えてくれたそうです。応募したケックさんは、審査、面接などを経て、パナソニック スカラシップの認定を得ることができました。そこから半年間、受け入れ先の大学を探す中で、日本は、ケックさんにとって「いつか行きたかった国」から「学びたい場所」へと変わっていきます。
ケックさん:日本の大学のいくつかの研究室にメールで問い合わせを重ね、後に私の恩師となる北海道大学の先生の研究室にたどり着きました。先生の研究は、生体医工学 (biomedical engineering, BME)の分野では先端のものだと知り、ぜひそこで学びたいと申し出たのです。来日後に「日本語検定の一級を受けて合格すること」を条件に私を受け入れていただけました。当時、その研究室では留学生は私1人だったので、周囲とのコミュニケーションをしっかりとって勉強も生活もできるように「がんばりなさい」と先生からのアドバイスでした。
2003年4月、ケックさんの留学先の地は北海道。その後、大阪で行われた認定式に向かう時、降雪で飛行機の出発が遅れて遅刻する体験もしたそうです。しかし、ケックさんを驚かせたのは、気候や環境の違いよりも周囲の人びとの温かさでした。
ケックさん:認定式の後、当時のパナソニック スカラシップの社長から、セーターやジャケットなどの冬着が贈られました。一人ひとりの学生の実情に心を寄せてくれていることを知り、生活面でも安心できるスカラシップなのだと実感しました。むしろ、大学での学力レベルが予想以上に高いことに不安を覚えました。しかし、それも先生や研究室の先輩たちが親身に指導してくれたことで、勉強へのやりがい、さらにはより学びを深めて将来何をするべきかを考えるための視野を広げていくことができました。
2006年当時のケックさん。着用しているジャケットは、2003年に、パナソニック スカラシップの関係者から北海道大学へ留学するケックさんへ贈られたもの。
ケックさんは、恩師と相談を重ね、修士課程修了後に博士課程へと進むことを決意。修了を迎える時に日本での就職、それもパナソニック(当時 松下電器産業)を選んだのはごく自然なことだったそうです。
ケックさん:企業が社会貢献として実施しているスカラシップのおかげで、私は、自分の人生の道筋を見渡せる場所に立つことができました。今度は、自分が知識や経験を重ねながら社会貢献に携わり恩返しをしていこう。そう心に決め、パナソニックで働きたいと思ったのです。
日本への留学と学びの先で、なりたかった自分になれた
ガンさんは、マレーシア工科大学ではケックさんの1年後輩に当たります。コンピューターエンジニアリングを学び、卒業後は外資系企業に勤めていました。パナソニック スカラシップを知ったのは、やはり新聞に掲載された募集の案内だったそうです。
ガンさん:外資系企業でしたが、勤務はマレーシア国内です。私は、小さな頃から海外に行きたい、さまざまな文化を持つ人びとと暮らしたいと夢見ていました。それを知っている友人が、その募集案内を見つけ、教えてくれたのです。マレーシアではマハティール首相が提唱する「ルックイースト」を通じ、日本の先進性が国づくりの見本として広く知られ、私も小さな頃から日本への興味を持っていました。生活を変えるのには勇気がいりましたが、「日本なら」とチャレンジし、2005年に認定を得ることができました。
大学では技術を学び、マレーシアでも最初はエンジニアとして働いていたガンさんでしたが、自ら申し出てマーケティングの部署に移り、営業職として東南アジアやヨーロッパの顧客を相手に仕事をしていたそうです。日本の留学先となる大学や研究室を探す時も、「コミュニケーション」に関わる分野にこだわりました。
ガンさん:「コミュニケーション」そのものが、自分の興味関心の分野だと思っていたので、ナレッジマネジメントの研究をしている徳島大学の先生の論文を興味津々で読みました。まさに「人と人とのコミュニケーションをどうやって高めるか」という内容で、ちょうど「留学生向けの日本語学習用ソフトウエア」の開発に取り組んでいることを知り、とても面白い、ぜひこの研究室で学びたいと思い、連絡を取りました。
その研究室では、すでに外国人留学生も受け入れていて、ガンさんは、教授や留学生研究者たちと連絡を重ねながら日本留学の準備を進めます。さらにパナソニック スカラシップのスタッフからも日本の情報等のサポートがあり、来日時は何の不安もなく徳島の空港に降り立つことができたと振り返ります。
ガンさん:まだ東京も大阪も未体験でしたが、徳島での留学生活は、刺激的で充実した「日本での学び」を実感するものとなりました。自治体の留学生会館では、世界中から集まった学生たちとコミュニケーションができ、研究室では最新の設備や器機を使うことができたのです。さらに、街に出れば地域の人びとはとてもフレンドリーで、登山が好きだった私は地元のサークルに入り、毎月、徳島の低山に登って豊かな自然を楽しみました。初めての海外生活なのに、たくさんの家族がいるようでとても心強かった。今でも徳島は私にとって第二のふるさとです。
研究室でナレッジマネジメントの研究に取り組み、国際的な会議にも積極的に参加する機会を得、先端の研究にも触れることができた日々は、ガンさんにとって、自分の将来を具体的にイメージする時間となりました。
ガンさん:修了後、私は日本の企業に就職しましたが、営業職に配属されました。東京に勤務し、各国大使館や大学の留学生を対象に製品を販促する仕事です。学んできた分野から少し離れた姿に見えるかもしれませんが、私にとっては、子どもの頃から夢見ていた「海外での生活」「さまざまな人とのコミュニケーション」、そのために必要な「技術的な知識に基づく提案」など、それまでの自分の人生の道のりがすべて活かせる仕事です。なりたかった自分になれた。日本への留学は、私にとって大きなものとなりました。
日本で広がった視野が、国際的な仕事で活かされていると実感
パナソニック スカラシップでは、毎年夏に国内各地で学ぶ奨学生たちが集まるサマーセミナーが開催されます。ケックさんにとっては留学生生活最後の、ガンさんにとっては最初の夏に二人は出会います。その後、日本で結婚した二人は、今後の人生を考え日本を離れる決断をします。
ケックさん:やがて生まれる子どもの教育、そしてマレーシアで暮らす二人の親たちのことが大きな理由です。できるだけ故郷の近くにいたいと思いました。そして、パナソニック スカラシップによって得た私たちの経験や知識を母国だけでなく、東南アジア、さらには世界に広める場を求めたのです。そう思えたのは、何人かの人たちからの影響があります。恩師の先生から得た知識や技術を人びとのために役立てたいと思ったのです。そして、パナソニックの創業者である松下幸之助のことはマレーシアでも数々の苦労を乗り越え、一代で世界的企業を作った人として有名でしたが、パナソニックに勤める中で、その理念に多くを学びました。例えば「技術よりも人を育てる大切さ」という創業者の理念は、時代が移り変わっても不変的な価値です。これからの自分が実践したい生き方の目標となりましたし、今、国際的な場で働く私にとって、とても大切な指針ともなっています。
ガンさん:私たちは日本を離れるに当たり、それぞれ勤めていた会社を辞めました。ところが幸運なことに、両社とも東南アジアでの事業展開を計画していて、それぞれ元の会社の新規事業に従事する形で再就職し、2013年、二人でシンガポールに移住し現在に至ります。私はここで、日本企業の現地法人を設立し、東南アジア、South Asia & Oceaniaの市場開拓に取り組んでいます。いろいろな国に出張に行きますが、その先々にパナソニック スカラシップで出会った留学生仲間がいます。信頼され評価の高い日本製品を扱うことに加え、そうした国際的なコミュニケーションの土台があることで、自信と安心を持って働くことができています。
日本への留学という、二人がそれぞれに踏み出した一歩は、今、歩幅を合わせて同じ未来へと向かっています。その道のりを振り返り、二人は留学経験をアジアの若者たちに勧めたいと言います。
ガンさん:徳島で学んでいた頃、ボランティア活動で地元の中高生に講演をする機会が何度もありました。そこで感じたのは、日本の多くの若者は、外国人との言葉の壁に不安に思っている、ということでした。私の日本語も決して完璧ではないけれど、それは壁ではないということ。一番大切なのはじっくりとコミュニケーンを図ること。その時に必要なのが、郷土や日本の良いところを先ず自分で理解し、それに誇りを持つこと。そして、それを他の人に伝えていくという思いです。それは誰にでもできる。自分の世界をしっかり持つことで、世界の人びととのコミュニケーションも可能になる。そのことを私は日本への留学で実感しました。
2006年。日本の小学校でボランティア活動を実施。コミュニケーションの大切さを伝えてきました。
ケックさん:私が学んだ北海道大学の前身、札幌農学校の創設者、クラーク博士は「少年よ、大志を抱け」(Boys, be ambitious!)という言葉を残しました。私は、日本で多くの人に助けられながら学び、パナソニックで働くことで、その企業理念のもと、人として成長することができました。今の仕事を通じて人々の生活の向上に貢献したいと強く願っています。それは海外留学という経験から得た人生観です。私たちには3人の子どもがいますが、私たちの経験、そして考え、この人生観を伝えていきたい。子どもたちがいずれ日本に留学したいと思った時には、背中を押して応援してあげたいですね。