1951-54年(昭和26-29年)

販売会社、月販会社を設立

販売体制の再構築に着手

1950年の再建声明以前から、将来の積極的な事業展開を目指して販売力、技術力、製造力の強化に着手していた。

販売については、1950年に販売会社制度を一部の地区で発足させる一方、翌年には本社の営業スタッフ部門の整備と営業出先機関の増設を進めた。販売会社の設立は1959年ごろまで、全国各地で積極的に推進された。

これと並行して、1951年から月販会社の設立も開始された。この月販会社は当初はラジオだけを対象として発足したが、その後ラジオ以外の大型商品も取り扱うようになる。

また販売店組織の復興も始まった。1949年には連盟店制度が復活、一部地区では有力連盟店による親睦組織「ナショナル会」が結成され始め、のちの「ナショナル店会」へ発展していく。

1951年9月、サンフランシスコで講和条約が調印され、日本の国際社会への復帰と日本経済の自立が指向された。その9月にラジオの民間放送が開始され、翌年8月にはラジオの受信契約が1000万を突破している。また1953年2月にはNHK東京が、8月には民間テレビ局が、テレビの本放送を開始している。

そのなかにあって、1952年10月、東京上野の松坂屋百貨店で、12月に発売するテレビの発表と実演に合わせて「家庭電気器具展」を開催。また翌年1月からは、家庭電化の啓蒙活動として、特製のテレビジョンカーを先頭に、全国移動展示会を開催して大変な人気を博した。

1950年後半から持続していた好況も1953年末から後退、翌年は深刻な不況で需要が停滞。加えて重電メーカーの家電市場参入もあって、販売競争は激化した。

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ナショナル提供番組「歌のない歌謡曲」がはじまったのは1952年1月のことであった