1965年(昭和40年)
新販売制度を実施
社運を賭けた大改革
熱海会談のあと、松下幸之助会長は病気療養中であった営業本部長の職務を代行し、問題の解決にあたった。その核となったのが「新販売制度」であった。
新販売制度は「これまで、事業部も営業所も販売会社も好況に慣れ、お互いに相手に依存する傾向になり、自主的な努力、意欲が失われてきていた」との反省の上に立って検討され、1965年2月から地域ごとに実施された。
新販売制度の骨子は――
(1)全国的な販売会社網の整備と充実
(2)営業所を経由しない「事業部直販制」
(3)新月販制度
――であった。
一方、わが社としても、事業部の自主責任経営を徹底し、販売に直結した製品開発体制を強化するとともに、全面的に営業体制を革新し、販売会社、販売店を支援する体制を整えた。「この制度を軌道に乗せるためには、3年間はわが社の利益を犠牲にしてもよい」との決意で臨んだ、それはまさに社運を賭けた一大改革だった。
最初はこの新販売制度に反対の販売会社や販売店が多かった。そのため松下幸之助会長、松下正治社長をはじめ、会社幹部が手分けして説得に当たらなければならなかった。しかし新制度の真意が理解されるにつれ、販売店の間からこれの実践を通じて経営の改善に努め、ともに業界の健全な発展をめざそう、との気運がみなぎってきた。そして各地でナショナル店会の決起大会や記念キャンペーンが展開されるまでに盛り上がった。
新販売制度が成功した翌1966年には各地で店会大会が開催され、席上、わが社に感謝の意が表された
週5日制を実施
週2日の休日を、趣味に、研修に、ボランティア活動にいそしむ社員と家族
高賃金、高能率の経営をめざす
1965年4月、他社に先駆けて完全週5日制を実施した。これは5年前に、当時の松下幸之助社長が「今後、世界のメ-カ-と互角に競争していくには、能率を飛躍的に向上させなければならない。それには休日を週2日にし、十分な休養をとる一方で、文化生活を楽しむことが必要になる」と発表し、世間の注目を集めていた計画であった。
ところが、この年は前年来の深刻な不況下で、わが社は新販売制度の推進に懸命の努力を続けていた時期であった。
週5日制の実施に際し、松下幸之助会長は「経済国難に直面しているときに、週5日制を実施することは容易ならないことである。このことをよくわきまえ、先進国アメリカ以上に高能率を生み出す決意で臨んでほしい。日本を一挙にアメリカに近づける、その先達を担うという意気込みでやってほしい」と訴えた。
週5日制は、その後「一日教養、一日休養」のスロ-ガンのもと、順調に軌道に乗り、従業員の勤労意欲と能率の向上に大きな役割を果たした。
1960年代は従業員の福利厚生の充実に積極的に取り組んだ。1960年に保養・スポ-ツ・娯楽施設、結婚式場、宿泊施設などを完備した「千里丘保健センタ-」を開設。保養所も北海道、神奈川県などに新たに4ヵ所を増設した。また従業員の研修、スポ-ツ施設の充実を図り、1964年に「社員研修所」を、翌年には「松下電器体育館」を開設した。
1959年、松下健康保険組合に健康管理部を設置、1963年には、それをさらに発展させた「健康管理センタ-」を開設し、家族を含めた健康管理体制を充実させた。
1967年には松下幸之助会長が「5年後に欧州を抜いてアメリカに近づく賃金にしたい」と表明。1972年には賞与を含めた年収比較で西ドイツ(当時)を抜き、アメリカに近づいた。戦後すぐに掲げた欧米並みの「高賃金・高能率」の理想は、こうして大きな前進を見た。
なお、1966年に「仕事別賃金制度」を実施した。これは、旧来の年功序列型から脱却して、従業員の能力を伸ばしながら、その人の能力に応じた仕事に就け、仕事に応じた賃金を支給する賃金体系であった。
枚方市に完成した社員研修所と体育館
鳥羽市に開設された「松珠荘」