1-4. 「碍盤」という名の救い神

「おお、ここやここや。ごめん!おお松下君やな」「へえ?」「わしは、この間ソケット見せてもろた、阿部電気商会の者や。捜したで」「ソケット、買うてくれはるんでっか!」「いやいや、実はソケットやのうて、ガイバンや」「ガイバン?」

意気は衰えないものの、進退きわまった大正6年の12月、思わぬところから“救いの神”はやってきた。当時、扇風機の碍盤(がいばん)は陶器製で壊れやすかった。そこで、扇風機の大手メーカー、川北電気が練物でつくってみようと練物を手がけるところをさがしていたのである。まずは見本注文であったが、試作品は好評で、年内1000枚の注文を受けた。それを10日間で完納した幸之助は80円の利益を手にし、年明けにはさらに2000枚の追加注文を受けた。

独立から半年。幸之助はこうして事業での最初の試練を脱したのである。碍盤の仕事が軌道に乗るや、念願の電気器具製造・販売に本格的に着手するため、大正7年3月7日、松下幸之助は大阪・大開町に「松下電気器具製作所」を創業した。