6-4. 世界への「調印」

昭和27年10月、幸之助はオランダにいた。アメリカ視察を敢行してから2年足らず。すでに三度目の海外旅行であった。すぐに世界中に電化の時代が来る、そのとき世界を相手にするには、飛躍的な技術の向上と合理化が不可欠だ----。初渡米以来、幸之助には並々ならぬ危機感があった。常に、自分に足りないことは素直に教えを請うてきた幸之助である。今は世界に教えを請うときだ。しかもことは一刻を争うと幸之助は感じていた。

幸之助が選んだ“先生” はオランダのフィリップス社。しかし、松下にとって、これは大きな賭けでもあった。提携の条件として、自社の資本金よりも多い資本金を持つ子会社を設立することになったからである。本当にこれでいいのか----。調印を目前にして幸之助は最後の自問自答をくり返していた。ペンを持つ手が震えた。幸之助は、迷いが晴れない自分を、しかり続けた。

「ええい、ここまで来て迷うやつがあるか」

迷いに迷った幸之助の決断の是非は、数年後に明らかになる。この提携で誕生した「松下電子工業株式会社」は、しばらくしてあらゆる松下商品の品質を支える電子管や半導体を生み出していった。景気回復期にいち早く"世界" をめざした幸之助の志の高さが、高度成長の波に乗って「家電の松下」の世評を揺るぎないものに育てていったのである。