イズムストーリー3

「君ならできる」。未経験技術者が開発したパナソニック初の家電
~スーパーアイロン~

1927年、創業から9年経ち、配線器具や電池式自転車ランプの成功によって300名近くの従業員を抱えるまでに成長した松下電気器具製作所。そんな松下が、家電メーカーとしての一歩を踏み出すきっかけになったのが、スーパーアイロンの開発でした。スーパーアイロンは改良を重ねた末大ヒット製品となり、パナソニックの初期の成長の礎となりました。
この製品は、なぜここまでのヒットに至ったのでしょう?スーパーアイロンに隠された「ヒット商品のものづくり」の秘密を探ろうと、パナソニックに2020年に入社し、ランドリー・クリーナー事業部でアイロンの設計を担当している岡野嵐施さんがパナソニックミュージアムを訪ねました。

(左)パナソニック株式会社 アプライアンス社2020年入社 アイロン・スチーマー開発課 岡野嵐施(らんせ)

(右)パナソニックミュージアム 館長 高濱久弥

※社員同士の会話のため、ここでは松下幸之助のことを「創業者」と言っています

1.あかりから家電へ

岡野:高濱館長、こんにちは!今日はスーパーアイロンの話を聞きにきました。

高濱:ようこそパナソニックミュージアムへ。スーパーアイロンのどんなところに興味があるのですか?

岡野:スーパーアイロンは松下電器の最初の家電製品ですよね?初めてつくった家電なのに大ヒットしたと聞いています。ヒット商品に共通する秘密が、何かそこにあるのではないかと思ったのです。
そして、ものづくりに対するアプローチや考え方がどのようなものだったのかを知って、今の製品開発に活かしたいと思いまして。

高濱:私も、当時を見ていたわけではないので(笑)、どこまでお役に立てるかわかりませんが、知る限りお教えしましょう。
...これが、スーパーアイロンです。

岡野:あれ?電源コードの先、差し込みプラグじゃないですね。電球の口金みたいです。

高濱:その上の、電灯用のソケットに差し込んで使ったんです。
当時、電気はすでに約8割の家庭に普及していましたが、壁のコンセントは、ほとんどの家にまだなくて、天井からぶら下がった電灯線に電球を差し込んでいました。そのためあかり専用だったんです。そこで活躍したのが...

岡野:...二股ソケット!

高濱:そうなんです。
1910年代、電気の利用は『電灯』だけでなく、『電熱』や『電動力』へ広がっていこうとしていました。電気製品を、あかりのソケットに刺して使う家庭が増えてきた。そのニーズをいち早く捉えてヒットしたのが“二股ソケット”だったのですね。

岡野:そして、創業者は、二股ソケットに繋げて使える電気製品をつくろうとした、と。

高濱:その通り。
ちょうどその頃、日本の電力供給に余裕が出てきたため、各地の電力会社が「家庭でもっと電気を使いましょう!」とプロモートし始めました。家庭用電熱機器への人々の関心の高まりを感じた創業者は、暖房機や調理器具、アイロンなど、ニクロム線(ニッケル・クロム合金の線)に電気を通して熱に変える製品を次の事業にしようと考え、社内に「電熱部」をつくりました。
しかし電熱器を作るのは、それまでのソケットやランプとは比べ物にならないほど難しいことだったのです。

2.幸之助に見込まれた男

岡野:当時の社内に電熱器の技術者はいたのでしょうか?

高濱:いませんでした。
しかし、創業者の頭には、一人の人物が浮かんでいました。彼の名は中尾哲二郎。
彼は砲弾型電池式ランプ発売直後に、松下電気器具製作所で働いたことがありました。その後、事情で東京に行き、別の会社で働いていました。創業者は電熱部をつくるにあたり、中尾さんを口説きに東京まで行き、再び、所員にしたのです。

1925年(24歳)の中尾哲二郎

岡野:つまり、中尾さんは、電熱器の技術者だったのですね?

高濱:いや、それが、電熱器に関してはまったくの素人だったそうです。

岡野:えっ。

高濱:金属加工の技術はあったものの、電熱の知識も技術もゼロ。しかし、創業者は、彼にその才能があると確信していたようです。

岡野:経験のない人物に任せるなんて、無謀というか、冒険というか...。

高濱:中尾さんは、『私一人では重いです』と固辞したのですが、創業者は、『君だったらできるよ。必ずできる』と説得したそうです。
中尾さんは、『僕をそこまで信頼してくれるのであれば、自分は命がけでこれと取り組んで、必ず成功させて見せよう』と決意したと、後に語っています。

岡野:命を懸けようと思わせたなんて…人を活かす天才ですね、創業者は!

高濱:『ものをつくる前に人をつくる』とまで言った人ですからね。
ただ…創業者が中尾さんに出した要求は、とんでもないものでした。

岡野:えっ。

高濱:当時、一般家庭では、まだ炭を使うアイロンが使われていました。

熱くなった炭を中に入れて使った炭火アイロン

高濱:電気アイロンは、1910年頃、アメリカで実用化され、日本には1914年頃に輸入されています。中尾さんが電熱部にやってきた1927年当時、アイロンは海外製で16円、国産品で4~5円で販売されていましたが、庶民には手の届かない高級品でした。

岡野:創業者は、『安くて、高品質』を求めたのでしょうね。

高濱:その通りです。創業者は中尾さんに、こう言ったそうです。
『今のような高い価格であれば、電熱という便利なものを多くの人に使ってもらうことはできない。
だからこれを合理的な設計と生産、合理的な販売によって、できるだけ安くしたいんや。目標は、現在、師範学校を卒業して小学校の先生になっている人たちが楽に買える電熱器や。このような人たちは、月給27円ぐらいで、だいたい二階借りをして暮らしている。そういう師範学校を出たての人たちにも買ってもらえるアイロンは、2円50銭にしなければいかん。
松下は、優秀な製品を徹底的に安く量産して、電熱の恩典にだれでも浴せるようにしようではないか。そういうものをやったら必ず成功すると思うが、どうやろうか?』

岡野:国産品が4~5円だから、半額を目指せ、ということですね。しかも品質は優秀でなければいけない!『学校を出て下宿住まいする、小学校の先生』って、消費者のペルソナをいきいきと表現しているし、価格の目標設定は間違いないのでしょうが…電熱器の素人に作れるとは思えないです。

「電熱の恩典にだれでも浴せるようにしたい」という強い思いを幸之助は抱いていた。

3.電熱の素人、中尾哲二郎の苦闘

高濱:1927年1月、アイロン開発がいよいよスタートしました。岡野さんなら、何から始めますか?

岡野:まずは情報集めでしょうか。参考文献を探したり、いまならネットで論文を検索したりするのでしょうが...

高濱:当時は、もちろんネットはないので、中尾さんは神田の書店を片っ端から歩き回って参考図書を探しました。散々探してようやく見つけたのが、京都の京福電鉄の社長が書いた『工業電熱』という本でした。
しかし、残念ながらその本には、家庭用電熱器のことも電気アイロンのこともまったく書かれていませんでした。

岡野:がっかりですね。誰か相談する人はいなかったのでしょうか?大学の先生とか。

高濱:残念ながら、周囲には相談できる相手もいなかったのです。
そこで中尾さんは、市場で販売されている電気アイロンをすべて買い集め、分解とテストを繰り返したそうです。“実物”とにらめっこしながら、電気アイロンはどのような素材、構造でできているのかを学び取り、改善点を検討した。アイディアを思いつき、実験を繰り返し、改善を繰り返していったそうです。
そして生まれたのが、例えば、アイロンの心臓部であるヒーターを鉄板で挟むという新技術です。

岡野:いまでいうリバースエンジニアリング!しかも、物まねをするのでなく、それを超えるモノを作ろうとしたんですね。

ヒーター(発熱体)を鉄板で挟むというアイディアを実現した

高濱:さらに驚くのは、この段階で中尾さんは、売った後のことまで考えていたことです。市場のアイロンに起きている故障についても調べました。

岡野:顧客の声を傾聴するマーケットリサーチ!何がわかったのでしょう?

高濱:中尾さんは、当時の電熱器はニクロム線の品質の限界から、ある一定の時間を過ぎると断線が起きることを発見しました。断線がしばしば起き、ヒーター交換のための修理に時間がかかっていたのですね。
そこで、最寄りの販売店でヒーターを素早く交換できるように、スペアヒーターを収納できる設計にしたのです。

岡野:そうか。故障を防ぐのではなく、故障しても、すぐ直せるようにしたわけですね。
そして、アイロンは完成した?

高濱:いいえ。値段を2円50銭にするためには、月産1万台の大量生産を実現しなければいけません。このような規模の生産は、松下電気器具製作所にとって初めての挑戦だったので、量産していくためには、まだまだ課題が山積みでした。
例えばアイロンのベース。シワを伸ばす役割の船形のパーツですが、鋳鉄を加工して、メッキを施して作ります。しかし手作業では月産1万台はとても実現できません。
そこで中尾さんは、大阪・十三の鋳物工場に何度もトライ&エラーをしてもらい、従来は手作業で行っていた加工を半自動で行う製法を新しく開発したのです。

アイロンのベースを半自動で製造することに成功したという。

高濱:ベースの上にかぶせるカバーも、東京で石鹸箱を製造している会社を見つけ、そこで製造してもらうことにしました。ところが、ベースとカバーを大阪と東京で別々に作ることから、フィットしないという問題が起きたのです。
しかし、中尾さんは即座に大阪側の鋳鉄の設計を見直し、この問題を解決したそうです。

岡野:設計、材料選びから量産を前提とした加工、組み立て…タスクが山積みですね。アイロン開発チームは、何人くらいの規模だったのですか?

高濱:それが、メンバーは中尾さんと、名剣さんという技術者のふたりだけだったそうです。

岡野:えーっ。最近のスタートアップみたい。試作品を一つ作るのにも手間がかかりそう。製品ができるまで何年かかったのですか?

高濱:それが、わずか3ヵ月で製品化したそうです。

岡野:うそでしょ!今、3Dプリンターを使ったって、そんなに早くは開発できないでしょう。

高濱:記録によると、開発に着手したのが1月10日で、4月にはもう製品の姿になっていたそうです。しかも原価計算すると、目標であった2円50銭には届かなかったものの、他社より圧倒的に安い3円20銭で売れるものができた。
後に中尾さんは自伝の中で、“意欲的に真剣に取り組めば、こういう仕事もできる”と控えめに語っています。わずか3ヵ月で、それもまったくのゼロから開発し、製品化までできたことは大きな自信になったと言っていますね。

岡野:今では日本のモノづくりはアメリカや中国に比べてスピードが遅いと言われるけど、やればできる気がしてきますね。

高濱:完成した製品は、『スーパーアイロン』と名付けられ、電熱部の第1号製品として大量生産されて、1927年に発売し、好評を博しました。その後に開発された改良品は、目標だった2円50銭で発売され、さらに多くの人々に喜ばれました。そして、1930年には商工省(現在の経済産業省)から『優良国産品』に指定されたのです。

岡野:安くて高品質だからこそ、お客様も国も、大歓迎したわけですね。

スーパーアイロンの広告。
「本邦唯一の商工省選定国産優良品」とある。
第6工場(電熱事業)の組立て工程(1933年)

4.挑戦の中で磨かれた“技術者魂”

高濱:このあと、松下電気器具製作所は、電気コタツ、ラジオと安くて高機能の家電製品を量産して世に送り出し、家電メーカーとして成長していく事になります。スーパーアイロンは、パナソニックが家電メーカーになる第一歩だったと言えるでしょう。
また、創業者にとっては、それまで自らの手で設計から製造まで手掛けていたのを、他の人物に任せることにした最初の製品になります。『衆知を集めた全員経営』の始まりとも言えるでしょう。

語り合う松下幸之助(右)と中尾哲二郎(1978年)

岡野:なるほど...
素人だった中尾さんがたった3ヶ月でつくり上げたヒット製品「スーパーアイロン」。やはり“ものづくりイズム”のヒントが詰まっていましたね。

高濱:感じ取ってもらえましたか?

岡野:100年近く前の話と思えないくらい、感じ取りました!
私なりに整理すると、ヒット商品が生まれる要件は

1. 専門的な知識にとらわれず、お客様の目線で素直に物事を見つめる。
2. 経営者は技術者を信じ、応援する。技術者は経営者を信じ、挑戦する。
3. あらゆる切り口から徹底的に追求する心がけで、手を動かし試行錯誤する。

なのだと思いました。
「衣食住」という言葉でも「衣」は一番初めに登場します。人が生きるうえで、「衣」は必要不可欠なアイテムです。服のケアはこれから先もずっと、生活の一部であり続けると思うのです。中尾さんの熱く、逞しい“技術者魂”を継承して、時代の変化に寄り添いながら、お客様に「こんな家電が欲しかったんだ!」と手に取っていただける衣類ケア商品を世の中に提供できるよう、励みたいと思います。

高濱:岡野さんから『スーパー』なパナソニック製品が生まれるのを、楽しみにしています!

パナソニック ミュージアム