■1960年 実は熟した
この広告が打たれたのは1960(昭和35)年7月、日本政府が「貿易自由化計画」を決定した翌月のことである。戦後の日本は一貫して保護貿易体制を敷き、外国製品の輸入を厳しく制限してきた。それは、いまだ脆弱であった自国産業を国際競争から守るためであった。しかし復興が進み、日本からの輸出が増大するにつれ、貿易自由化を求める国際社会の声が高まっていく。そうしたなかでの計画決定であった。産業界には自由化を不安視する向きもあったが、幸之助は違った。「日本の産業が自由貿易による外国製品との競争で敗北するような根の浅いものであってはならないし、また、いつまでも、国内産業保護政策に甘えていることは、産業人として日本国民のみなさまに申し訳ない」と受け止め、さらに「松下電器は万全の態勢をととのえて、貿易自由化実現の日にそなえています」と言い切るのである。終戦直後の危機を乗り越え会社再建に着手してから丸十年、まさに「実は熟して」いた。