2. 父が米相場に失敗 1899年(明治32年)
日清戦争を契機に、全国に産業振興の波が押し寄せた。そうした機運を反映してか、投機熱も異常に高まり、明治26年に各地に設置された米穀取引所は非常な活況を呈した。和歌山米穀取引所でも、しきりに米相場が立てられていた。
父政楠は、百姓仕事は小作人に任せ、村会や役場の仕事に携わることの方が多かった。若くして村会議員に選ばれたこともある。進取の気性に富み、そうした機運の高まりにも興味を持ったのか、米相場に手を染めた。
しかし、慣れないこととてうまくいくはずはなく、結果は失敗し、松下家は一転して困窮生活を強いられることになった。先祖伝来の土地も家も売却し、一家は住み慣れた千旦ノ木をあとに、和歌山市に移った。明治32年、幸之助満4歳の時である。
父はわずかな資金を元手に、知人のつてで履物屋を始めたが続かず、2年余りで閉店した。明治35年7月、父は創立間もない私立大阪盲唖院に職を得て、単身大阪へと出発した。