6. 五代自転車店に奉公 1905年(明治38年)

勤めて3ヵ月目に、宮田火鉢店は店をたたむことになり、幸之助は船場堺筋淡路町の五代自転車店に奉公することになった。

当時、自転車は国産のものは少なく、ほとんど米国製や英国製で、値段は100円から150円もする、いわば最先端の文明の利器であった。彼は今までとは違ってハイカラな商品を相手に日々を送ることになった。

店には旋盤やボール盤があり、ちょっとした鍛冶屋のような仕事もあった。彼はもともと小道具を使うのが好きだったから、毎日愉快に働いた。そんな彼を、主人の五代音吉氏もふじ夫人も実の子どものようにかわいがった。

ある日のことである。何度目かの開店記念日ということで、全員で記念写真をとることになった。ところが、運悪く用事を言いつかり、その時刻に間に合わなかった彼は、楽しみにしていただけに泣き出した。すると、夫人は彼の手を取り、写真屋に連れていき、一緒に写真をとってくれた。

この店で彼は最も多感な少年時代を約5年4ヵ月過ごした。