門真と松下幸之助 ー更なる発展を期してー 門真と松下幸之助 ー更なる発展を期してー

1918(大正7)年の創業から14年を経た1932(昭和7)年、松下幸之助は産業人としての真使命を知り、これを「命知」と呼びました。翌1933年、幸之助はさらなる発展を期して事業の本拠地を門真に移します。この企画展では、移転のいきさつや、その後の事業発展を紹介するとともに、門真市・京阪ホールディングス様の協力のもと、門真の街の移り変わりを振り返ります。

【協力:門真市 京阪ホールディングス株式会社】

※ このコンテンツは、2020年2月24日から5月23日まで開催されたパナソニックミュージアム「松下幸之助歴史館」の企画展「門真と松下幸之助~さらなる発展を期して~」をWeb用に再編集したものです。

もくじ

第1章 創業から命知へ 第1章 創業から命知へ

大阪市内の大開町で創業を果たした幸之助は、配線器具を皮切りに、電池式ランプ、電熱器、ラジオへと、事業を拡大していきます。そうした中で事業に対する使命感を追求し始めた幸之助は、1932年の春、遂に真の使命を知るに至ります。

創業の家~第一次本店

大正9(1920)年から10年にかけての不景気は、さらに深刻の度を増していったが、これに反して、松下電器は、だんだん業界に進出をなして、10年秋には、どんなに仕事場を工夫しても、注文には応じきれず、工場の増設に踏み切らねばならない状態になった。

~中略~

これを基礎に、いよいよ一人前の仕事ができるという自信が、 心の底に動いてきた。そこで自然にこの工場の建設が、全く決定的な努力を心に 深く誓わし、私の仕事の上に1画期をなすものであった。

松下幸之助著 『私の行き方考え方』(1954)より

第二次本店

昭和4年に建築させていただいたこの建物は、その頃としては大規模なもので、総工費7万ほどと記憶しています。
工場のそばに住宅を建てて、会長がお住いになっていました。

施工者:中川組 社長談

創業の家[1918年]
第一次本店 外観 [1922年]
第二次本店外観 [1929年]

当時の工場の風景

第3工場 (練物配線器具工場)
第6工場 (電熱器工場)の内部
第6工場 (電熱器工場)の外観
第7工場(ラジオ工場)のスピーカー作業場
第7工場(ラジオ工場)の外観
第8工場の内部

第2章 移転のいきさつ 第2章 移転のいきさつ

その後、事業は加速度的に発展し、各工場がフル稼働しても注文に応じきれない状況が生じるようになりました。そこで幸之助は、店員養成所(企業内学校)の建設用地を確保していた門真に土地を買い足し、新たな工場群を建設する決断を下します。

当時の京阪電車沿線の風景

門真移転のいきさつ

昭和7年、松下電器は各工場への注文が日に日に増大し、全工場が総力を結集し生産に拍車をかけても、なお注文に応じきれないというほどのすばらしい盛況で、新たに工場を建設する必要に迫られていました。その時、店員養成所を建設する話があって、香里園に格好の土地があるので、これを買収するようにと社主から話があり、私は京阪電車にのって香里園に行く途中、守口を過ぎて間もなくこの広い土地が目に入り、ここにいい土地があるなあと思いつつ香里園に行ったのですが、香里園の土地は話と実際に大きな相違があって、店員養成所の建設地として満足できるものではなく、話もそこそこにして帰ることにしました。帰途、新工場建設のことを考え門真で下車して、行きがけにみた土地について付近の人にどこの土地かと尋ねたところ、東守口耕地整理組合の土地で組合長は木崎善平さんという人だというので、その足で組合長の家を訪れたのです。

石井政一の発言より

石井政一 [1877~1968](写真右)
1929年に松下電器製作所に入社し、門真土地買収に従事した。
1925年、松下幸之助が大阪市の連合区会議員に当選した時、同時に当選し、幸之助と親しくなった。
1935年に㈱会社組織になり、監査役に就任。
1937年、松下電器健康保険組合設立時に初代理事長に就任している。

迷信を打破して

なぜ、この門真進出をすることにしたかというと、それまでの松下電器の工場では、日々増大する注文に応じ切れなくなってきたからである。だから当時は増産こそが最大の課題であった。松下電器としては、本格的な大工場の建設が必要になってきたのである。それで大阪市内で候補地をあちこち探したけれども、これはと思う適当な土地がない。 そこで結局、すでに以前買い求めていた門真の土地に本店と工場を建設することにした。そして世間から言われたことは、「門真地区は大阪の鬼門にあたる。そんなところへ進出するのはよくない」ということであった。 なんとかしてこの門真進出は果たしたい。しかし、鬼門だということがやはりひっかかる。いろいろと考えているうちに、私がふっと考えついたのは、北東にあたるのが鬼門であるならば、日本の地形はどこに行っても鬼門ばかりではないか、ということである。日本の国土は、大体のところ北東から南西へ伸びている。だから、北東が鬼門というなら、どの地方もみんな鬼門にあたることにもなり、門真はたしかに大阪の鬼門だが、鬼門であること自体を気にする必要はない。こう考えると私の心はスッと楽になった。そこで私は、門真に進出することを改めて決断したわけである。

松下幸之助著 『決断の経営』(1979)より

門真のレンコン畑

第3章 竣工、第三次本店 第3章 竣工、第三次本店

建設されたのは、ラジオ受信機工場、金属およびベークライト工場、店員養成所、そして歴史館のプロトタイプとなった第三次本店(本社)でした。竣工は1933年7月、その後9月18日に落成式が行われました。

竣工当時の第三次本店
竣工当時の本店と西門真地区

昭和7年5月5日は、わが松下電器が、新しい使命に生まれかわった、意義深い日であった。この日よりわが社の指導精神は、確固不抜の強力なものになったのである。そこで私は、つね日頃から夢に描いていた、理想の学園を建設しようと決意し、設置場所について、あちこちと苦心して探したあげく現在の門真町の候補地と定めた ~中略~ 昭和7年9月、中川組により着工した工場は、(昭和)8年6月21日めでたく落成したのであった。
私は社屋を一般に見ていただくとともに、本社建設の内面事情をも、世間一般に表明しようと考えて、次の挨拶文を出したのである。

『私の行き方考え方』より

竣工にあたっての所主挨拶文
竣工した第三次本店の平面図
特別応接室
商品陳列室
エントランス
玄関

稼働風景

松下電線株式会社最初の初荷(1937年)
金属工場(1933年)
放送受信機特性測定室(1937年)
流作業の導入を行い、能率の向上を図った
ラジオセット組立工場(1937年)
ナショナル受信機を作る東洋一のラジオ工場(1939年)
ナショナルラジオの正価表

店員養成所風景

化学実験の授業(1934年)
尚武館での武道訓練(1934年)
養成所旗を囲む生徒(1938年)
店員養成所外観

第4章 その後の発展 第4章 その後の発展

門真工場は、当時の基幹事業、ラジオの製造拠点として大いなる発展を遂げていきます。また、部品事業も活況を呈します。その中で、本社は時代とともに場所を変えますが、登記上の住所は変わらず、今日も「門真市大字門真1006番地」であり続けています。

1961年竣工 第五次本社
1937年竣工 第四次本社(現在のさくら広場)

部品工場

「どの工場も世界的水準の工場にする」方針のもと、ラジオ部門は、門真移転当時の建物を引き続いて使用してきたが、1959(昭和34)年末には伝統的な門真工場を解体してラジオ組立専門の新鋭工場を建設した。その間、1957年にはトランジスターラジオを発売、生産は1955年の50万台/年から急速に伸びて、1960年には230万台/年を超えた。ラジオの部品部門は音響工場、電解工場、抵抗器工場などを次々と建設、ラジオだけでなくテレビ、通信機用の部品を生産、他メーカーにも部品を供給する体制が整ってきたので、この部門を部品事業部としてラジオ事業部から分離独立させた。

『松下電器五十年の略史』より

部品工場群

松下電工(現:エコソリューションズ社)

戦時中の松下航空工業は、終戦とともに本来の配線器具の製造に復帰することとなり、1945(昭和20)年11月15日、社名を「松下電工株式会社」と改め新発足した。しかし、配線器具の主力工場だった明石工場が被爆全焼し、配線器具の設計図面や金型などの資料全てを焼失してしまった。研究部を発足し、配線器具の全品種にわたって設計図面を復元する一方、設備難、資材難といった戦後の苦難のなか、配線器具の品質向上に努めた。1953年からは戦前から生産発売していた電化器具が復活。中でも1955年12月に登場した電気カミソリ第1号「MS-10」は、翌年の初荷でもって一斉発売された戦後の新製品で、理美容器具分野へ当社が本格的に進出するとともに、この年から活発になった家庭電化ブームの波に乗った製品でもあった。1964(昭和39)年9月15日には、現在でも健在である門真本社 新本館が落成。建設にあたっては、照明器具をはじめ各種電設資材・建材製品はすべて当社製を使用した。

『松下電工50年史』より

落成した門真本社 新本館
ナショナル電気カミソリ第1号「MS-10」
(平1枚刃電磁振動式カミソリ)
門真本社の電気カミソリの組立工場

さくら広場の中で本社が動いていた

1939年(昭和14年)11月、本社に販売部を設け各社の販売部門の一切を継承させた。このため、事務所を拡張せねばならなくなったので、北側隣接の当時の松心寮の1階および別館の1部を改造中であったが、1階だけは完成したので、1939年11月に取り敢えず人事、総務の両課が移転し、以後順次移転する方針を確立した。

歴史文化マネジメント室資料より

第5章 写真で見る共存の足跡 ー門真の皆様、京阪電車とともにー 第5章 写真で見る共存の足跡 ー門真の皆様、京阪電車とともにー

門真市と松下電器

高度経済成長期の門真では、松下電器関連の工場群の拡充に伴う従業員の増加や、また周辺に立地する下請中小企業の増加により、地域経済が発展し人口が増加した。松下の成長は、「家電の街」としての門真の名を全国に知らしめたのである。

『門真市史』より

旧・京阪門真駅

昭和 8年

門真へ松下電器製作所の本店移転(当時は門真村)

昭和38年

門真市の誕生

昭和39年

松下幸之助が門真市初の名誉市民に

昭和42年

オランダ アイントホーフェン市と門真市初の姉妹都市を提携

昭和48年

ブラジル サン・ジョゼ・ドス・カンポス市と姉妹都市を提携

平成25年

門真市制施行50周年を迎える

京阪電車の高架複々線化

昭和47年(1972)11月に着工した土居-寝屋川信号所間高架複々線化工事は、1970年代に京阪電鉄が最も力を注いだ事業であり、完成時民営鉄道最長の複々線であった。旅客増の著しい守口-門真間の輸送ネックの解消のため、輸送力増強・運転保安・踏切保安を図る“線増”、さらに都市計画・都市交通の観点から“高架化”が必要であった。

『京阪百年のあゆみ』より

地上時代の旧・門真駅(写真 門真市)

1972(昭和47)年11月に着工し、
82年3月に完成した(工期:9年4ヶ月)

出典:京阪百年のあゆみ

京阪電車のテレビカー

京阪電車では既にテレビを特急に搭載していたが、技術的な面で好評とはいえませんでした。同社の特急電車の大幅な増車および改造にともない、搭載テレビの根本対策を松下電器に依頼。テレビ事業部では鋭意実験を重ね電車路線に最も適した回路およびアンテナ方式を開発し、1956年(昭和31年)3月、17型の全く新しい電車用テレビの開発に成功して好評を博しました。

『テレビ事業部10年史』より

昭和38年頃の京阪特急「1900系」

テレビカーは京阪特急の代名詞ともなり、1971年(昭和45年)7月1日にはわが国初のカラーテレビ設置車両「3000系」を登場させ、1992年(平成4年)8月1日には鉄道車両としてはわが国で初めて衛星放送を開始するなど、旅客サービスの向上に努めてきた。

『京阪百年のあゆみ』より

わが国初のカラーテレビを設置した旧・3000系のテレビカー
旧3000系デビュー当時

1965〜1975(昭和40〜50)年頃の門真周辺

写真 門真市

地上時代の旧・門真駅
中央環状線(昭和43年)
門真分署前交差点(昭和43年)
旧・門真駅付近(昭和47年)
旧・門真駅付近(昭和47年)
旧・門真駅付近(昭和47年)
建設中の門真ぷらざ(昭和47年)
新・門真駅ロータリー(昭和50年)
旧・ビデオ事業部前(昭和50年)

旧・歴史館前の高架工事の様子(1972〜82年頃)

関連リンク

パナソニック ミュージアム