1933年(昭和8年)、当時38歳であった松下幸之助は、大阪・門真の地に、第三次本店・工場を建設しました。こだわって作り上げたという、南欧風でモダンなその社屋は、非常に機能性に優れたオフィスでもありました。
創業100周年を記念し、2018年にオープンしたパナソニックミュージアム。そこに建てられた松下幸之助歴史館は、86年前の第三次本店の姿を、より高次元で再現したものです。
ここでは、幸之助がこだわりを見せた「第三次本店」の当時の姿を振り返るとともに、新・歴史館の、細部にわたる復元の考え方や建設時の様子をご紹介します。
※ このコンテンツは、2020年2月24日から5月23日まで開催されたパナソニックミュージアム「松下幸之助歴史館」の企画展「新・松下幸之助歴史館誕生物語」を Web 用に再編集したものです。
もくじ
松下幸之助は、将来の事業展開を見据えて、本拠を門真に建設することを決断。店員養成所の建用地を拡充し、1933年、第三次本店は竣成しました。
門真ブロックの発祥
昭和8年7月、松下電器は大阪市の北東郊外に位置する大阪府北河内郡門真村(現:門真市)に、新しい本店と工場を建設、総面積7万平方メートルの土地に本店および店員養成所、ラジオ受信機工場、金属、合成樹脂工場が竣成しました。これが、門真ブロックの第三次本店・工場です。
松下電器製作所本店新築工事概要
位置
大阪府北河内郡門眞村大字門眞舊四番1005番地
総敷地坪数
七千百四十坪五一三
建坪
二千七百九十八坪八合
構造
木骨鐵綱コンクリート造洋瓦葺二階建
高さ
特別應接室屋上タワー避雷針尖頂に於いて地盤よりの高さ50.5尺
建築様式
南歐趣味を加へたるインターナショナル式
本店竣成記念帖より
――“創業者松下幸之助の「思い」を次の未来へ”
その姿は、1933年に竣成した第三次本店の姿を限りなく再現したものです。
二度目の復元
1933年に第三次本店竣成。その社屋が創業50周年を迎えた1968年、松下電器歴史館としてよみがえりました。
(2008年、松下幸之助歴史館に改称、旧歴史館)
それから50年後の2018年、創業100周年にあわせて新・松下幸之助歴史館が竣工しました。
これは、建設場所を含め、第三次本店の復元をさらに追求したこだわりの建物です。一方、旧歴史館は「ものづくりイズム館」として、新たな道を歩み始めました。
外観復元の考え
1933年当時の外壁は白漆喰とタイルにより構成され、大きな上げ下げ窓による開口部とステンドグラスによる丸窓、屋根はフランス瓦とスペイン瓦が組み合わされ、日本に入ってきたばかりの、ヨーロッパの最先端意匠を取り入れようとした意欲的かつ個性的な洋風建築でした。
残存する第三次本店建設時と解体時の写真を確認し、モノクロ写真のカラー再現化を行いました。
当時の構造は、現在の建築基準法において、鉄筋コンクリート造での復元が不可能なため鉄骨造を採用し、その意匠を踏襲しました。
外装タイル
裏足をあえて表側に使う当時の意匠を再現。当時の写真を検証し、裏足は4本、タイルの色は茶系の濃淡3色が使用されていたことを特定したが、あえて6色のタイルを貼ることで、当時の未発達な技術により生じた焼きむらも再現した。製作過程では、旧歴史館のタイルを採取して色を特定し、原料となる土は色が最も近い信楽産を採用した。
窓
第三次本店建設当時は、大型ガラスの製作が困難であったため、中桟(なかざん)でガラスを分割されていた。
モノクロ写真をカラー再現し、色は濃茶色、ガラスは上2段が透明で、下2段が半透明となっており、採光とプライバシーの両立を図っていた。
煙突
自然換気(動力換気)の排煙口として復元。
エコミュージアムの象徴にもなっている。
樋(とい)
写真当時の流通材料を考察すると、銅製であったと推測されるが、今回はアルミ製の樋に銅風の塗装を施した。
舵輪(だりん)
舵輪は、幸之助が自ら神戸港まで買い付けに出向いた。
オリジナルの舵輪は戦時中に失われてしまったが、今回は当時の写真を入念に調べ、スポークの数、大きさや色も忠実に復元し設置した。
瓦
1階の屋根にフランス瓦、2階の屋根はスペイン瓦として復元。当時は塩焼の瓦を採用していたが、今回は、釉薬(うわぐすり)による色再現を実施。2色を混合させて、当時の焼きむらも再現した。
ステンドグラス
第三次本店建設時に製作され、現存する唯一の健在である。
エントランス
第三次本店の写真考察と旧歴史館の型取りから復元。模様が特徴的な袖柱(そでばしら)は当時、左官で作られたと推測される。当時は高価い石材を用いるより、職人の技術で左官による石風の意匠とした方が廉価であったためだが、現在では職人の手間の方が高価となったため、今回は石を採用して復元した。
松下幸之助翁像とカイヅカイブキ
1986(昭和61)年、労組結成40周年を記念して労働組合より贈呈された銅像。幸之助70歳のころの写真をもとにつくられた。
カイヅカイブキは第三次本店竣成当時に植樹されたもので、当時から現存するもののひとつ。
松下幸之助の思いを蘇らせる
第三次本店が建っていた「その場所」に建物を蘇らせることで、幸之助の言葉・思いを、時代を超えてその原点に浮かび上がらせ、創業100年の節目において、レガシーを最大化しています。
「第三次本店」は、今でいう「本社オフィス」に相当する施設でした。内側に通風や採光が行き届いた学校の教室のような執務室が房状に連なり、所主室(松下幸之助所主室)を中心に、事務室、会議室、食堂等が配置され、大きな家族の家のような機能的な仕事場(=オフィス)を創り出していました。
新・松下幸之助歴史館展示室の象徴ともいえる「松の樹」と、当時の第三次本店所主室がほぼ同じ位置にあり、かつての建物が「オフィス」としての機能性に主眼を置き計画されたように、「展示室」としての新しい機能にふさわしい器でありたいと考えました。
松下幸之助は、大阪・門真の地で、念願であった、人づくりの場、店員養成所を開設しました。
そして、毎朝の朝会を体系的にスタートしたのも、門真に来た頃でした。
朝会・夕会の実施
パナソニックでは現在においても多くの事業場で毎朝、朝会を実施している。
グループソング斉唱、綱領・信条・七精神を唱和し、朝会当番が所感を述べる。
朝会で所感を行う目的について、幸之助は次のように述べている。
――朝会、夕会では、社員が交互に一分間、話をすることにした。
一番最初にぼくが話をすれば、次の日は部長がやる。その次は課長、店員、見習い店員というように、みんなが順ぐりに、所懐を述べ合うようにした。
これが習い性となって、朝会、夕会はいまでもずっと続いているわけですわ。
ぼくの考えでは、朝会の場があるということは社員のひとつの教育になる。
また何かみんなに注意しなければならんことが発生すれば、翌日すぐ、朝会で全員に注意することができる。
叱るのでも「A君がこういうことをやった。これはいかんじゃないか」と、朝会の席でいえばいい。みんなの前で叱るということは、非常識のようでそうでない。
みんなお互いの欠点を知り合わないかん。だから、ぼくの場合も欠点はいうてよろしい。
朝会の席で立って、「松下相談役、こういうことは気をつけてもらわないかん」
「そうか、それは気がつかなかった。大いに注意しよう」――これでいいんですよ。
みんなが知り合った欠点をお互い補う合うことになる。
ただ正直いうと、ぼくもしゃべるほうは億劫だった。上手じゃなかったし、しゃべることは好きじゃなかった。しかし、それだけに、ぼくは必要を感じたんですな。一風変わっているといえば変わっているけれども、やはり教育のひとつの場として必要だ。朝会をやる、その日の規律がピシッと立ちますからね。
芝居だって、見せ場になるとバシッ、バシッと柝(き)を打ちますやろ。それといっしょですわ。
松下幸之助『悔いなき青春を』京都音楽文化協会
現在も継承される綱領、信條、七精神
店員養成所の開設
小学校卒業者を対象に、3年間で旧制中等学校5年間の商業・工業両課程修了と同程度の学力をつけるとともに、人間的修養を加え卒業と同時に実務ができる店員を育てることを目的として、昭和9年4月、門真に開設された。毎日、勉学4時間、実習4時間、計8時間で1週間の授業時間は48時間。日曜、祭日以外は夏冬の休暇もなしというスケジュールであった。それは、当時5年間であった中等学校教育を、その質をいささかも落とすことなく、3年間に短縮するためであった。
幸之助は、普通の中等学校卒業生より2年早く、最も感受性の強い、16~17歳という年ごろに実地に着かせることによって、真に役立つ店員の養成をはかろうと考えていたのである。第1期の入所学生は47人。小学校卒業生のうち優秀な者だけを全国から選抜、入所させた。教師団は松下の社員の中から選ばれた専任者と、大阪府下の大学、高専などから招かれた外来講師とで構成され、きわめて水準の高いものであったといわれる。幸之助も時おり教壇に立って、特別講話を受け持ったりした。
後の関係会社社長や、事業部長を含む、数多くのリーダーを輩出した。
〈PHP編「松下幸之助小辞典」 PHP 1993〉
門真を本拠地とした1933年から名誉市民の称号を受けるまでの、松下電器の門真での発展と門真の町の変遷を紹介します。
協力:門真市
1964(昭和39)年10月1日、門真市制1周年記念式典で、幸之助に門真市名誉市民の称号がおくられた。
市議会で設置された名誉市民条例が初めて適用されたもので、北河内郡門真村に工場を移して以来、その後の飛躍的な発展で、門真が“電気の町”として全国に知られ、市政財に大きな貢献をした功績をたたえられたものである。
門真での発展
門真の変遷
幸之助と松下電器
門真市
市町村・人口の変遷
第三次本店
れんこん畑の風景
京阪沿線の様子
門真村
明治22年4月 町村制実施による村の編成
12,190人
昭和10年
松心寮
鉄筋コンクリート造の松心寮後に第四次本社社屋となる
第四次本社
竣工した第四次本社
現在のさくら広場の場所
門真町
昭和14年4月 町制の施行
14,367人
昭和15年
16,398人
昭和22年
17,313人
昭和25年
中央研究所
現・北門真(門真市駅北隣)
門真駅の様子
門真町
昭和31年9月 町村合併により、門真村、大和田村、四宮村、二島村が合併して門真町に
20,858人
昭和30年
21,830人
昭和31年
部品工場群
1957年に竣工した部品工場群
現在の西門真工場群
京阪沿線の様子
22,738人
昭和32年
24,412人
昭和33年
27,984人
昭和34年
32,471人
昭和35年
第五次本社(現本社地区)
本社竣工後の1962年の門真ブロック航空写真
現在の西門真・本社地区
昭和43年頃の消防署門真分署前
昭和47年頃の新橋町踏切付近
門真市
昭和38年8月 市制の施行
41,058人
昭和36年
51,929人
昭和37年
65,041人
昭和38年
1964年10月1日
門真市制1周年記念式典にて、名誉市民の称号を受ける幸之助
昭和47年頃の門真駅
昭和47年頃の門真市駅付近(現 生産技術本部あたり)
77,628人
昭和39年
87,386人
昭和40年