これは、2019年10月7日から11月23日まで、松下幸之助歴史館企画展「伝える情熱・3部作」の第3部として実施した展示の記録です。
戦後の会社再建が軌道に乗った1953年、松下電器に、社長の幸之助と従業員を結ぶ斬新な社内コミュニケーションの手法が誕生しました。現金支給の給料という、月に一度の楽しみを運ぶこの袋に、従業員へのメッセージを載せたリーフレットを封入する。こうした妙案が「給与リーフレット」の名で始まったのです。この第3部では、そうした従業員に向けられた“伝える情熱“に着目しました。
賞与支給時を含めると、その数100を超した毎月のメッセージには、責任ある社会人として生きるための心構え、仕事に対する姿勢、政治への苦言、はたまた日本という国の将来像など、さまざまな主題が登場しますが、幸之助がこれでもかといわんばかりに強調したのが、「松下電器は『社会の公器』である」という考え方でした。これは経営理念の根幹にほかならず、この第3部を「給料袋が運んだ理念」と名付けた理由も、ここにあります。
メディアとなった給料袋
時代は刻々と移り変わり、それとともに私たちの周辺には、さまざまな変化が生じています。加速する
キャッシュレス決済の浸透もその一つですが、かつて昭和が終盤に入った頃、お金のやり取りのオンライ
ン化が進むなかで、多くの会社から、サラリーマンの月一度の楽しみ、現金入りの給料袋が消えていきま
した。
その給料袋を主人公にしたエッセイを、20世紀の日本を代表する作詞家・阿久 悠(あく・ゆう、1937-2007)が、ずばり「給料袋」と題して残しています。
「拝啓給料袋様」と呼びかける阿久は、まず幼い頃を振り返り、「父の給料袋に一体どれほどのお金が入っていたのか、子どもであったぼくが知るところではありません。しかし、それがいくらであれ、茶色の紙封筒の中に入っているお金の枠の中で、現実の生活も、家族それぞれが持つ小さな欲望も、果ては未来への準備も行われるのだということは知っていたのです」と綴ります。そして、彼自身が給料袋を手に
した日々を回想し、「濃密な関係でしたね。あなたとは」と結ぶのです。
阿久に限らず、会社勤めならだれもが“濃密な関係ʼ'を感じていたであろう給料袋。これを社長としての思いを従業員に伝えるメディアに変えた経営者がいます。それが松下幸之助でした。思いを込めたメッセージを載せたリーフレットを給料袋に封入する。「給与リーフレット」と呼ばれたこの斬新なコミュニケーションを、幸之助は1953年1月に開始しました。
「会社が小さくて、従業員の人びとの数がすくないころには、私もひとりひとりの人にお会いできたし、お話もできたのですが、今日のように会社が大きくなってしまうと、私も全部の事業場はとてもまわり切れないし、従って、私に話しかけて頂くどころか、顔も見たことがないという従業員の方がたが非常にたくさんになってきました。それでは従業員の方がたに申しわけないし、私もまたいささか淋しいので、せめて月に一回くらいは、親しくお話しするつもりで、私の写真とともに、四季のあいさつを送りたいと考えて始めたのが、このリーフレットでした」※
こうした気持ちで、幸之助は社長を退任する1961年1月までの8年間、従業員に向けて、その家族をも視野に入れたメッセージを送り続けたのです。
※社内用に編纂された冊子『リーフレット集・月日とともに』(1963年)の「まえがき」より抜粋
社内広報と「給与リーフレット」
松下幸之助は創業当初から、自身と従業員、また従業員同士のコミュニケーションを尊び、それゆえ社内広報の充実に力を注いでいきました。「給与リーフレット」を考案したのも、その一環であったと言えます。
1927年、幸之助は「歩ー会(ほいちかい)」※1 と名付けた従業員会の機関誌として、『歩ー会会誌』を創刊します。これが松下電器社内広報の囀矢(こうし)となりました。『歩ー会会誌』は幸之助のメッセージと従業員の投稿を中心に構成されました。また幸之助の「自叙伝」も連載され、これが『私の行き方考え方』※2 の底本になりました。
1934年には『松下電器所内新聞』(翌年、株式会社化に伴い社内新聞に改称)が誕生し、経営方針、経営情報を従業員に徹底する役目を担います。
こうして、早くも戦前の段階で、雑誌、新聞という社内広報の軸となる2大メディアが出揃ったのです。戦後は、まず新聞が1946年に復刊され、続いて1954年、雑誌が『松風(しょうふう)』の名でよみがえりました。そして1960年代に入ると、『松風」の姉妹誌として、『松風文芸サロン』、『松風女性』がお目見えします。さらに、管理職層を対象とした『かんとくしゃ』や、従業員が研究・勉強会の成果を投稿する『経営研究』が登場したのも、1960年代のことでした。
こうしたなかで異彩を放ったのが「給与リーフレット」です。思いを綴ったメッセージを必ず読んでもらえるようにしたい。この幸之助の“伝える情熱ʼ'が、「一人ひとりに宛てた給料袋をメディアに用いる」という発想につながったのでしょう。
「給与リーフレット」は歴代社長に引き継がれ、給与の現金支給がなくなった後も2011年まで続き、以降、イントラネットの「社長ブログ」に道を譲りました。
※1
創業から2年後の1920年に設立された全員参加の所内団体で、従業員の福利増進、融和親睦を目的とした。
1946年、労働組合結成に伴い解散。
※2
1954年刊行の幸之助半生の記。幼少期から門真移転(1933年)までをカバーする。
松下幸之助「給与リーフレットの8年間」
松下幸之助が給料袋にリーフレットを封入した1953年1月から1961年1月までの8年間は、彼が松下電器の社長として、日本の家庭電化を強力に牽引した時期でもありました。
1918年に創業を果たした幸之助は、配線器具を皮切りに、電池式ランプ、電熱器具、乾電池、ラジオヘと事業を拡大していきます。そして創業から14年を経た1932年、産業人の真使命を知ると、翌年、本拠を創業の地である大阪市内の大開(おおひらき)町から郊外の門真に移し、事業部制実施、貿易会社設立、株式会社への改組と、経営の仕組みを急ピッチで整えていきました。
しかし1930年代後半、日本は戦争の時代に突入。1945年の終戦後も過酷な日々が続きます。
幸之助が「再び開業する心構え」で本格的な会社再建に乗り出したのは、1951年のことでした。この年、幸之助は初のアメリカ視察を果たすと、翌1952年にはオランダのフィリップス社と技術提携を結び、来たるべきエレクトロニクス時代に備えるべく松下電子工業を設立します。「給与リーフレットの8年間」が始まるのは、その翌年のことでした。
この8年間に会社は驚異的な発展を遂げます。従業員数は7千5百人から3倍強の2万3千人に増え、138億円であった売上は10倍近くの1,054億円に達しました。事業部の数も1953年に8であったのが、1960年には、無線・電化・電池・電機・配電機の5事業本部傘下に18事業部、本社直轄が5事業部と、合計23に達します。
特筆すべきは、この間に「松下電器五ヵ年計画」(1956年~ 1960年)が実行されたことです。日本の家庭電化を一段と加速させるための「五ヵ年計画」を「大衆との見えざる契約」と呼んだ幸之助は、その履行に向け、製造・販売から需要家とのコミュニケーションに至るまで、あらゆる手を打っていきました。そして計画が目標を大きく上回って達成されたのを見届けて、1961年1月、社長を退任し、会長に就任したのです。その月の「長い間本当にありがとう」が、幸之助としての「給与リーフレット」最終回となりました。
ここからは「給与リーフレットの8年間」各年のあらましと、その年のリーフレットに載った印象的な写真を2葉、そして毎月のメッセージ表題と代表作3編を紹介します。
なお、松下幸之助歴史館・ライブラリーでは、幸之助の給与リーフレット(複製)をすべてご覧いただけます。
1953(昭和28)年
1951年の洗濯機、1952年の白黒テレビに続き、この年、当社は冷蔵庫を発売。ナショナルの「三種の神器」が出揃い、これら3つの製品を中心とした家庭電化ブームが本格化していきます。白黒テレビ本放送が始まったのも2月のことでした。
【主な社内の出来事】
1月:「特製テレビジョンカー」が先導する全国移動展示会がスタート
2月:皇太子殿下がラジオ工場をご視察
5月:中央研究所を開設
1月
「おめでとう」
2月
3月
「心に青空を」
4月
「身体を大切に」
5月
6月
「平和を喜ぶ」
7月
「中央研究所ができました」
8月
「心を新たにもう三年」
9月
「星空の下」
10月
11月
「ものの見方」
12月
「自主性ということ」
1954(昭和29)年
当社は「限りなく優良品を世の中に、そして豊かな電化生活を人々に」とうたう標語を掲げ、日本の家庭電化に拍車をかけます。しかし、景気はあまり芳しくありませんでした。
【主な社内の出来事】
1月:日本ビクターと提携。幸之助は野村吉三郎元駐米大使を社長に起用
2月:『歩ー会会誌』の廃刊で途絶えていた社内誌が『松風』の名で復活
5月:自主責任経営強化に向け、事業部・営業所に内部資本金制度を導入
1月
「新しい年」
2月
「良い品をつくろう」
3月
「春を楽しむ」
4月
「一つの考え方」
5月
「力を協せて」
6月
7月
「仕事を楽しむ」
8月
9月
「“まさか”はいけない」
10月
「秋を迎えて」
11月
12月
「年の瀬」
1955(昭和30)年
5月、当社は2年遅れで創業35周年を祝いました。会社は発展を続けているものの、「手放しの楽観はゆるされない」という幸之助の判断で祝典は延期されていたのです。
【主な社内の出来事】
9月:家庭電化啓発の季刊誌『<らしの泉』を刊行
10月:アメリカ向けスピーカーの愛称としてPanasonicの使用を開始
12月:九州の産業振興に向けて、九州松下電器を設立
1月
「初春とともに」
2月
「みんなが明るく生きるように」
3月
「新しい内閣と公約」
4月
5月
6月
「一つの教訓」
7月
「祭りを楽しむ」
8月
「勉励努力の気風を」
9月
「躾が大事です」
10月
11月
「電子工業の大運動会」
12月
「御苦労さまでした」
1956(昭和31)年
1月の経営方針発表会で「松下電器五ヵ年計画」を表明した幸之助は、この計画を「大衆との見えざる契約」と呼び、全力でその目標に挑みます。この年、経済白書は「もはや戦後ではない」とうたいました。
【主な社内の出来事】
1月:CMソング「明るいナショナル」が誕生
5月:大阪電気精器(現パナソニックエコシステムズ)を設立
11月:天皇皇后両陛下、松下電子工業に行幸啓
1月
「計画は必ず実行しよう」
2月
3月
4月
「製品に関心と誇りを持とう」
5月
6月
「不注意をなくしましょう」
7月
「夏の生き甲斐」
8月
「業界全体の繁栄のために」
9月
「自然に従う」
10月
「干里の堤も」
11月
「この佳き日」
12月
「いろいろありがとう」
1957(昭和32)年
「五ヵ年計画」2年目のこの年、重電各社の家電業界進出が加速するなか、当社は販売網のさらなる強化に努めます。「ナショナルショップ」の誕生も、この年のことでした。
【主な社内の出来事】
2月:「ナショナル店会」の結成を開始
11月:専売店の「ナショナルショップ制度」がスタート
この年、1950年に着手した販売会社の設立を加速
1月
「よき心がけをもって」
2月
「深い心づかいのもとに」
3月
「新しい人々を迎えて」
4月
5月
「変らぬ精進を」
6月
「ケジメが大事」
7月
「かばい合う心」
8月
「変らぬ誠実を」
9月
10月
「努力ということ」
11月
「理解と協力のもとに」
12月
1958(昭和33)年
当社はB2BやB2Gの事業にも本格的に乗り出します。それを象徴したのが、この年の松下通信工業設立でした。本拠は大阪ではなく、首都圏横浜に置かれました。
【主な社内の出来事】
1月:通信機事業部を独立させ、松下通信工業を設立
11月:松下電子工業が品質管理の権威ある賞、「デミング賞」を受賞
12月:輸出事業本部を設置
1月
2月
「私たちへの信頼」
3月
「二つの心がけ」
4月
「賢明な心がけ」
5月
「貯蓄の習慣を」
6月
7月
「暑い中にも」
8月
「苦労と喜びと」
9月
「目標を見定めて」
10月
11月
「調和の姿を」
12月
「ご苦労さまでした」
1959(昭和34)年
この年、「五ヵ年計画」の数値目標が1年前倒しでほぼ達成されます。加えて、輸出や技術援助などの海外事業も、本格化していきました。
【主な社内の出来事】
5月:ラジオ事業部から部品部門を独立させ、部品事業部を設立
9月:戦後初の海外販売会社として、アメリカ松下電器を設立
10月:技術や資本の輸出を含む海外事業強化に向け、国際本部を設置
1月
「この年の自覚」
2月
「足もとの一歩一歩から」
3月
「全体の調和の上に」
4月
5月
「心配のない暮らしを」
6月
「若鮎の如く」
7月
「山と仕事」
8月
「調和を保って」
9月
10月
「油断のならない時代」
11月
「あたりまえのこと」
12月
「総決算の年の暮」
1960(昭和35)年
「五ヵ年計画」最終年のこの年、1月の経営方針発表会で幸之助は、次なる大目標を従業員に示します。それは5年後に「週5日制」を実施するというものでした。
【主な社内の出来事】
2月:カラーテレビ1号機をNHKに納入
8月:特機営業本部を設立。特機とは産業分野向けの特殊電気機器のことで、これは幸之助の命名
12月:「松下電器五ヵ年計画」が目標を大きく上回って終了
1月
「経営方針とともに」
2月
「ウカウカしておれない」
3月
「備えあれば」
4月
「職場を大切に」
5月
6月
「礼節の心がけ」
7月
「八年ぶりの渡欧」
8月
9月
「一層のサービスを」
10月
11月
「適正な給与ということ」
12月
「心の総決算」
1961(昭和36)年
1月10日、経営方針発表会の演壇に立った幸之助は、「五ヵ年計画」の達成を喜び、従業員に感謝の意を表しつつも、「松下電器は製造したものを販売する製造販売業だが、製造したものをいかに販売するかということに、多少欠けるところがあるのではないか。それは商売人の本領を忘れているからである。お互い、もう一度、商売人に立ち返らなければならない」と警鐘を鳴らし、方針発表を終えました。
そして再び登壇すると、社長を退き会長に就任し、松下正治副社長が新社長に就任したことを発表したのです。この時、幸之助66歳、1918年3月7日に23歳で松下電気器具製作所を設立してから、43年が経過していました。
2週間後の1月25日、「長い間本当にありがとう」と題するメッセージの載った幸之助最後の「給与リーフレット」が、給料袋に運ばれて従業員のもとに届きました。裏面を飾ったのは、退任を表明した経営方針発表会での写真でした。
映像で見るメッセージ
冒頭で述べたように、幸之助は「給与リーフレット」を通じて、松下電器が「社会の公器」であることを強く訴えました。ここでは毎年のメッセージからそのくだりを選りすぐり、その時々の幸之助のポートレートとともに紹介します。音楽は1946年から1973年まで歌われた社歌のメロディーです。