81. 7つの制限を受ける 1946年(昭和21年)

松下電器は、戦後直ちに民需生産への転換を発表し、生産再開に取りかかったが、その矢先の9月2日、GHQから陸海軍解体・軍需工業停止を目的とする一般命令第1号が発せられた。これに関連して、松下電器の民需生産再開に対しても、ストップがかけられた。

再建の意気あがる第1歩でのこの生産中止命令に、全員は大きなショックを受けたものの、すぐに許可申請活動を展開、事情を説明して抗議をしているうちに、民需生産転換の基準も決まり、9月半ば、ラジオの生産が許可されたのに続き、乾電池、電熱器、電球と次々と許可され、10月中には、全事業場が生産再開へとこぎつけた。

ところが、昭和21年に入ると、状況は一変した。悪性インフレの中で、GHQの方針も厳しくなり、松下電器は相次ぐ制限令を受けるに至った。3月に、制限会社の指定を受け、すべての会社資産が凍結されたのをはじめとして、6月に財閥家族の指定、7月に賠償工場の指定、8月に軍需補償の打ち切り、11月に公職追放の指定、12月に持株会社の指定、昭和23年2月に集中排除法の適用という7つの制限を受け、松下電器は解体の危機に直面した。