82. 財閥指定に抗議 1946年(昭和21年)

これらの制限の多くは、GHQの財閥解体方針に基づき、指定されたものであるだけに、社主にはどうしても納得できないものがあった。松下電器は、社主が一代で築き上げた会社であり、何代も続いて日本の財界を動かしてきた財閥とは根本的に違うのに、それが同列に指定されている。

社主は「松下電器の事業は本来平和的な生活必需品の生産販売である。軍の厳しい要請で、仕方なく分野外の仕事をしたために、自分は大きな借金を負った戦争被害者である。借金で身動きの取れない財閥などないではないか。この財閥指定は明らかに間違いである。間違いは正さねばならない」と決心した。

それから4年間、社主は50数回にわたってGHQに出頭し、抗議を繰り返した。また、高橋荒太郎常務も、前後100回近くGHQに出頭し、指定解除の交渉を続けた。

こうして最後まであきらめず抗議を続けているうちに、社主の生い立ちと松下電器のありのままの姿が理解され、同時に占領政策も徐々に緩和されてきたこともあって、昭和25年後半になり、ほとんどの制限が解除された。しかしその間、社主は個人資産も凍結され、生活費は公務員の給与ベースに制限されたために、友人に借金して、毎月の生活を維持するという窮状に陥った。