86. 物品税の滞納王と報道される 1949年(昭和24年)

日本経済の急速な安定を図るため、昭和23年12月の経済安定九原則に続き、翌年3月には、ドッジ・ライン(超均衡緊縮予算)が強行された。

これにより、インフレは一応抑制されたが、金融の引き締めによる資金難、購買力の低下は一層進行し、中小企業の倒産が相次いだ。松下電器も支払手形の決済にこと欠く苦境に追い込まれた。

すでに過去3年間赤字経営が続き、危機に立たされた昭和24年1月の経営方針発表会で、社長は「われわれが産業人であるならば、これだけの人の働きの成果を黒字にもっていき、国家の繁栄、社会の繁栄、従業員の生活向上になるような成果ある仕事をしなければならない。そうでなければ、あってかいない存在であると考える。あってかいない存在であるならば、松下電器は解散してもよいと思う」とまで訴え、全員の奮起を促した。

その後、組織の統合、販売部門の強化、人員整理などを行い、建て直しを図ったが、デフレによる不況の深刻化で、7月にはラジオなど12工場が半日操業を余儀なくされた。年末には、物品税の滞納王として、社長の名が報道されるという事態にまで立ち至った。