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家電メーカーへの第一歩

「スーパーアイロン」

1927

幸之助は新しい事業を考えていた。大正から昭和へ元号が変わり、家庭への電灯線の普及は9割近くに及んでいた。さらに、電気の利用は、電灯だけでなく電気コンロ、電気コタツなどの電熱器具に広がっていこうとしていた。しかし、電熱器具は、まだまだ価格が高く、一般家庭では容易に購入できなかった。当時、自動車王ヘンリー・フォードの自叙伝を読み、その思想に感銘を受けていた幸之助は、「電熱器を、一般家庭でも買える値段で大量に送り出せば、大衆に喜ばれて普及が進み、立派に事業が成り立つ」と確信し、1927(昭和2)年に電熱部を設立した。そして後の技術担当副社長である中尾哲二郎に電気アイロンの開発を命じた。

電熱器の知識や経験がまったく無かった中尾は固辞するが、幸之助の「君だったらできるよ。必ずできる」という言葉に鼓舞され、自ら開発することを決意。当時は、電熱器に関する参考図書もなく、相談する相手もいないという心細い状態からの開発スタートだった。他社のアイロンを全部買い集め、分解してテストを繰り返すところから始めた。また市場でどんな不良事故があるかということも調べた。当時の電熱器は、使っているニクロム線の質が低く、断線する故障が多かった。そこで中尾は、断線した場合に小売店で簡単にヒーターだけ取り替えられるように、スペアヒーターを入れる構造を考えた。何もかもが初めてという状況の中で、中尾は、なんと3ヵ月後には電気アイロンを開発してしまった。

商品化にあたり幸之助は「量産を前提とし、価格は2円50銭、品質は一流」と中尾に注文を出した。2円50銭の根拠は「師範学校を出て下宿住まいする、小学校の先生でも買える価格」だった。当時の国産のアイロンは、4~5円で販売されていた。中尾の試算では、1万台作れば価格の引き下げが可能と出た。しかし1万台という数字は、当時、国内で毎月販売されていたアイロンの総台数よりも多い。それだけの台数を売りさばくことができるのか…。幸之助は熟考の末、「決して乱暴な数字ではない」と販売を決断。電熱器第1号製品のアイロンは「スーパーアイロン」と名付けられ、目標の2円50銭には届かなかったが、3円20銭で売り出され好評を博した。その後、開発された2円30銭の改良品はよく売れ、代理店からも喜ばれた。そして、1930(昭和5)年には商工省から「優良国産品」に指定された。

スーパーアイロンを皮切りに、電気ストーブ、電気コタツへ広がった電熱器事業により、松下電器は、町工場から「家電メーカー」へ飛躍する第一歩を踏み出した。中尾はその後も、画期的な製品を次々と生み出していく。そして60年の長きにわたり、松下電器の技術の総帥として数々の新技術、新製品を世の中に送り出すとともに、ものづくりへの姿勢と考え方を後進に伝えた。

アイロンかけの様子(1930年)

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