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自社製ラジオが出来るまで

3球1号型受信機「当選号」

1931

創業から12年後の1931(昭和6)年、松下電器製作所は、ラジオの販売を開始する。
日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年のこと。それから5年が経過し、普及率は東京で20%を超え、大阪でも約17%に達していた。そうした中で、販売代理店からは「松下電器もラジオの商売をやれ」という声が上がるようになる。これを受けた幸之助は、「松下電器として商売を行う限りは、故障のないラジオを発売する」との方針を掲げた。その頃のラジオは品質的にまだまだ不安定で、「ラジオは故障するもの」というのが一般通念であった。それを覆さねば、という思いであった。

しかし、松下電器にはラジオの技術がなかった。そこで幸之助は、信頼できる専門メーカーと提携してラジオの製造会社を設立し、そこでつくられた製品を松下電器の販売網、つまり配線器具やランプや電熱器を扱う電器店で売る、この手法で商売を開始した。ところが発売直後から不具合による返品が連続する。幸之助は提携先に故障のないラジオの開発を要請するも、返ってきたのは「無理だ」という答え。結局、この計画は失敗に終わった。
相次ぐ返品の原因は、ラジオ専門店ではあたりまえの、修理技術を持たない電器店がラジオを扱ったことにあった。幸之助は失敗を認めた上で、「当初の方針通り、故障のないラジオ、修理技術のない販売店にも売っていただけるラジオを開発しなければならい」と決意、自社開発を研究課長・中尾哲二郎に命じた。

中尾は同僚とともに白紙の状態からラジオ技術を学び、一心不乱に研究を続けた。そして、JOAK東京中央放送局(現・NHK)がラジオ受信機の設計コンテストを実施するのを知ると、それに入賞することを目標に掲げた。
試作機が仕上がったのは応募締め切りの前日であった。中尾は出来立てのラジオを抱えて東京に向かう。そしてJOAKの技術部長に説明を行った。
審査が終わり、中尾のもとに電報が届く。「1等当選」を知らせる吉報であった。中尾はこの試作機を新型キャビネットに組み込み、自社製ラジオ1号機・R-31が完成した。1等当選にあやかり、R-31は「当選号」と銘打たれて1931(昭和6)年10月に発売された。

2年後の1933(昭和8)年、不朽の名機R-48が誕生する。これを経てラジオは松下電器のフラッグシップ商品となった。そして、戦後、テレビにその座を譲るまで、ナショナルブランドの屋台骨を背負い続けるのである。

ラジオ「当選号」の広告(1930年)

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