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家庭電化ブームの火付け役

噴流式電気洗濯機

1953

幸之助の義弟で松下電器の創業メンバーである井植歳男は、終戦後の1946(昭和21)年に松下電器を去り、翌1947年に三洋電機製作所を創業した。創業の品は自転車用「ナショナル発電ランプ」。これは松下電器退社に際して幸之助から贐(はなむけ)として、ナショナルの商標とともに製造権を譲られたものである。

1952(昭和27)年には日本で初めてプラスチックを筐体に採用したラジオを開発し、三洋電機は業容を拡大。戦後民主主義のもとで女性解放・男女同権などの感覚が国民に浸透し、より豊かな生活を求める要望が高まりつつあった当時、井植は電気洗濯機に着目した。きっかけは代理店主の「社長、私の家では電気洗濯機を使うてますさかい、女房は洗濯の苦労を知らぬと言うとります」という言葉だった。それを聞いた井植は「洗濯機をつくって奥さん方を喜ばそう」と決意した。

丸型の攪拌式電気洗濯機は戦前から輸入されており、国内でも製造が始まっていた。しかし、1台5万~6万円と高値なため一般家庭には高嶺の花で、1952(昭和27)年の国内生産台数はわずか1万5000台だった。
当時の洗濯は主婦がタライで衣類をゴシゴシこすって洗っており、家族分の洗濯は重労働だった。しかし、日本の男性は洗濯に関心がなく、高価な機械を使うのは贅沢だという誤った経済観念がはびこっていた。井植は「使いやすい洗濯機を大量生産し、コスタダウンを図れば必ず主婦に歓迎されるはず、贅沢は敵ではない」と確信した。

早速、国産品から外国製品まであらゆる洗濯機を取り寄せて試作・研究を開始。本社でも井植自ら先頭に立ち連日実験が続けられ、社長室は水浸しの惨状だった。約1年の歳月と数千万円の開発費を投入し、いよいよ量産ラインに乗せようという直前、井植は開発中の丸型の攪拌式より、英国フーバー社の噴流式の方が日本人向きであることを知る。噴流式は角型で場所を取らず、密封式だからどこにでも置ける。また布地の痛みも少なく汚落ちもよい。井植の決断は早かった。丸型攪拌式の工場に生産開始の一時保留を命じるとともに、噴流式の研究を指示した。

噴流を起こすパルセーター、消費電力の少ないモーター、水槽の深絞りなどを独自開発、1953(昭和28)年8月に国産初の角型噴流式洗濯機を発売。従来の半値に近い2万8500円の小売価格を実現したこの製品は、値段だけでなく使い勝手の良さも主婦に受けて市場で爆発的な人気を呼び、これが火付け役となりわが国の家庭電化ブームが始まった。後に評論家の大宅壮一氏は、この洗濯機が発売され、日本の家庭向けの「三種の神器」(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)が揃った1953年を「電化元年」と名付けた。

女優の小暮美千代さんが「サンヨー夫人」として活躍
(1923年)
評論家・大宅荘一氏の筆書

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