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誕生、完全金属外装乾電池

「ナショナル ハイパー乾電池」

1954

パナソニックが乾電池の自社生産を開始したのは、松下電器製作所時代、1931(昭和6)年のことである。幸之助は、1927(昭和2)年の発売以来、大ヒットを続けていたナショナルランプに使用する乾電池の製造元、小森乾電池を傘下に入れ、自社工場としたのだ。ナショナルランプは全国津々浦々に普及し、それとともに、「ランプの代名詞がナショナルなら、乾電池もナショナル」と言っても過言ではないプレゼンスを示すようになった。
そして戦後、日本が復興から成長へと舵を切り始めていた1954(昭和29)年、松下電器は独自の技術により、日本で初めての完全金属外装乾電池「ナショナル ハイパー乾電池」を開発する。外装を紙筒から金属缶に変えることで、当時の乾電池につきものであった嫌な液漏れが半減し、貯蔵寿命も倍増する、という画期的な製品であった。

当時の日本の電機業界では、欧米企業との提携によって技術力を高め、事業の拡大を図る動きが活発化していた。1952(昭和27)年の松下電器とフィリップスとの技術提携もその一つであった。
しかし、乾電池の分野では、松下電器は独自の技術で世界水準の製品を開発する方針を貫いた。そうさせたのは、当時、技術担当常務であった中尾哲二郎の技術者魂である。

実はその頃、松下電器では、世界一といわれたアメリカの乾電池メーカーとの提携話が具体化しつつあった。乾電池の技術に精通していた中尾は、提携交渉で渡米した際、街のスーパーでそのメーカーの乾電池を買うと、それを真っ二つに切り、中身を徹底的に調べてみた。そして、欠点と思われるいくつかの疑問を交渉の場で投げかけた。けれども、結局答えは返ってこない。これで中尾は「このメーカーのやっている程度のことなら、技術援助がなくてもできる」と自信を得たという。

社内では「世界一の乾電池メーカーが日本に上陸し、どこかの会社と提携でもしたら松下はかなわん。だからこれは提携した方がいい」という意見が主流であった。だが中尾は信念を曲げず、現場を担う事業部に問いかけた。「そこでぼくは事業部の関係者の意向を聞いてみたのです。すると事業部としては、ぜひとも独自の技術でやってみたいという強い希望を持っていました。『君たちにそういう意気込みがあるなら必ず成功する。ぼくはだんぜん断る意見を通す』ということを答えたのです」
結果、提携は取り止めとなり、事業部は自らの力で「ナショナルハイパー乾電池」を開発した。中尾の技術者魂と事業部の意気が実を結んだのであった。

「ナショナルハイパー乾電池」の広告(1963年)

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