story6
学生1000万人の「1万円テレコ」誕生

テープレコーダー「マイソニック」

1963

日本が高度成長期のまっただ中にあった1960年代はじめ、戦後のベビーブームに生まれた、後に団塊の世代と呼ばれる子供たちが高校進学の時期を迎えていた。彼らが自宅学習用に注目したのがテープレコーダーである。同じ頃、アメリカンポップスが流行し、ヒット曲を録音して楽しむ若者たちが出現、テープレコーダーはいよいよ普及期を迎えようとしていた。当時、テープレコーダーの普及モデルは2万円で、各社はこのクラスの製品に全力を注いでいた。録音機事業部長(当時)の松本正男は、このタイミングを絶好のチャンスととらえ、「一般消費者にテープレコーダーを親しませ、テープレコーダー人口を増やしていこう。そのためにはもっと使いやすい、親しみやすい、しかも求めやすいテープレコーダーを開発せよ」と命じた。さらに「価格は、現在の市場価格2万円の半額とする。思い切った目標を持ったほうが既成概念にとらわれず新しいアイデアを生み出せるものだ。そして“機械”ではなく“商品”でなければならない」と注文をつけた。

市場価格の半額で作るためには、発想を大きく変えなければならない。3号リール専用とし、速度も4.75cm/sの1速のみに絞り込み、小型軽量を追求した。さらにオールトランジスタの採用と大量生産に適応した同時加工の多用で、組み立て工数を半分以下に削減。また、録音・再生・消去の3つのヘッドをコンパクトなケースに収めた画期的な「3in1ヘッド」を新たに開発した。価格は半分でも、上級機と同じ大型キャプスタン駆動を採用するなど、大型機にひけをとらない音質を追求した。

1963(昭和38)年、価格1万円のテープレコーダーが完成。社内からペットネームを募集し「マイソニック」に決定した。同年9月に「1000万学生諸君のテレコ『マイソニック303』」が満を持して発売されると、発売直後より市場からは熱狂的支持で迎えられた。また、メディアからも大いに注目を集め、専門紙、一般紙を問わず、「マイソニック」の記事が連日紙面をにぎわした。この結果、国内市場占有率は50%を越え、市場のリーダーシップを握った。

その後、マイナーチェンジを加えた「マイソニック300」が発売され、両機種で50万台を越えるテープレコーダー史上、かつてない大量販売記録を作り、「マイソニック」は、その後のAV機器開発の指針となった。

マイソニック出荷の様子(1963年)

関連リンク

パナソニック ミュージアム