第1部 テレビジョン技術のはじまり

日本のテレビは、1953年の放送開始から四半世紀を経た1970年代後半には世帯普及率が100%近くにまで成長しています。その最初の一歩、それは小さな大成功でした。第1部では、大河のような大きな産業に成長したテレビのはじまりの1滴から、それが小川になって流れはじめるまでを、第1章、第2章、第3章の構成でご紹介します。

※:内閣府の「消費者動向調査」

第1章 イロハの「イ」からはじまった

今からわずか100年前は、遠く離れた場所の「今」の様子を見聞きしたり、遠くにいる人々にイメージを伝えたりすることは夢のような話でした。のちに「日本のテレビの父」と呼ばれる高柳健次郎氏(1899-1990年)が、テレビ開発に着手したのは、「静岡に住む母に、東京の歌舞伎を見せたい」という思いからです。

高柳氏は、1918年、東京高等工業学校附設工業教員養成所(現・東京工業大学)に入学、そこで、後に東京工業大学の初代学長となる中村幸之助氏より「いま流行っていることをやるな。10年後20年後、日本になくてはならない技術を見出して、コツコツ勉強しなさい。20年後の未来に、世の中が欲しいと思うものを開発しなさい」という薫陶を受け、その言葉を胸に刻みます。

卒業後、神奈川の工業高校の教員をしながら、「遠くに映像を送る手段を発明できないか」という空想を思い描き、自らそれを「無線遠視法」と名付けて、その実現方法の検討を開始しました。そんな時、フランスの専門誌にラジオ受信機の上に額縁のようなものが乗り、中で女性歌手が歌っている様子が「テレビジョン」構想と表現されているイラストを見つけます。

それを見た高柳氏は「無線遠視法は、まさにこの『テレビジョン』だ。ならば、世界中の誰よりも早くテレビジョンを発明しよう」と決意を新たにしました。高柳氏は、1924年に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部。以下、浜松高工)の助教授に就任、電子式のテレビジョンの実現をめざして研究に励み、1926年12月25日に世界で初めてブラウン管による「イ」の字の送受信に成功、これがテレビジョン誕生の瞬間です。

画像:高柳氏がイメージした「テレビジョン」
高柳氏がイメージした「テレビジョン」
写真:「イ」を墨で書いた雲母板、1926年撮影
「イ」を墨で書いた雲母板(1926年)
写真:初期のニボー式円板送像機、1927年撮影
初期のニボー式円板送像機(1927年)
写真:初期のブラウン管受像機、1927年撮影
初期のブラウン管受像機(1927年)

1928年4月には、顔や手の映像送信に成功。当時の走査線数は40本でした。1930年5月31日に、浜松高工に天皇陛下をお迎えしてテレビジョンの天覧実験が行われると、これを機に、テレビジョン研究が加速。1935年にはアイコノスコープ(撮像管)による撮像方式を取り入れ、全電子式テレビジョンを完成させました。
この頃から、テレビジョンの将来性に期待がもたれはじめ、1940年に予定されていた東京オリンピックをテレビ放送するという計画が国家プロジェクトとして立ち上がって、研究はさらに加速していきます。高柳氏は1937年に浜松高工教授のまま、NHK技術研究所に出向して日本のテレビ技術開発のリーダーを努め、翌年、後のアナログ標準テレビ規格(525本・毎秒30枚)に近い走査線数441本・毎秒25枚の技術を完成させました。

写真:天覧時のニポー式円板送像機、1930年撮影
天覧時のニポー式円板送像機(1930年)
写真:浜松高工が作製したテレビジョン自動車、左より、受像車、音声送信車、 映像送信車、撮像車、1938年撮影
浜松高工が作製したテレビジョン自動車(1938年)左より、受像車、音声送信車、映像送信車、撮像車
写真:高柳健次郎氏

高柳 健次郎たかやなぎ けんじろう(1899 ~ 1990年)

1921年

東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業

1926年

世界で初めてブラウン管による「イ」の字の送受信に成功

1937年

NHK 技術研究所に出向、テレビ開発のリーダーを務める

1946年

日本ビクター(株)入社

1970年

日本ビクター(株)代表取締役副社長就任

1981年

文化勲章受章

1988年

静岡大学名誉教授

「イ」の撮像体験コーナー
高柳健次郎氏が、世界で初めてブラウン管に「イ」の字を映した時の様子を実際に体験してみましょう!
ニポー円板テレビの原理実験機。送像は機械式、受像は電子式の折衷方式です。静岡大学高柳記念未来技術創造館所蔵
受像機。送像機から送られてきた電機信号(明暗の線)を上から順番に並べると、「イ」の字を映像として見ることができます。この実験機は、入手が困難なブラウン菅ではなく、半導体レーザーを使用し、「イ」を大きく表示しています。
送像機。渦状に40個の走査孔と、最外周に40個の高速同期孔(水平同期)、中心付近に1つの低速同期(垂直同期)が開いており、手動で回転させて調節する仕組みです。(当時はモーターで毎秒14回転)
写真:ニポー円板テレビの原理実験機を使い、送像機から受像機に「イ」の字を映す様子

第2章 テレビ開発のための人材をスカウト

1930年代に入るとラジオの普及が本格化し、当社もラジオの開発・販売に力を入れ始めていました。このタイミングで、当時技術部長だった中尾哲二郎(後の副社長、技術最高責任者)は、松下電器(現・パナソニックグループ)でもテレビ開発に着手することを決心し、適した人材を求めて、1934年に高柳氏のいる浜松高工に出向きました。当時はテレビがものになるとは誰も信じておらず、できても無線で絵が出せるようになるという程度で、現在のような映像の実現は夢にも想像していませんでした。しかし、中尾は、将来必ずテレビの時代が到来すると見抜いており、テレビをやるのであれば、高柳氏がいる浜松高工と繋がりを持たねばと考えていたのです。

写真:当時の浜松高工での学生の実験風景
当時の浜松高工での学生の実験風景

その時、担当教官の推薦を受けたのが、電気学科3年で成績が優秀だった久野古夫でした。久野は、卒業前に浜松から門真に出向き松下幸之助と面会。幸之助から「学校で研究をするのも、人生として結構だけれども、製品をつくって、それを全国津々浦々に行き渡らせ、自分の作った製品をみんなに使ってもらうのも喜びが大きいのではないか。それには技術者がいるのだ」と勧められました。当時の松下電器製作所はまだ全国的には知名度が低く、同期の多くは東京の会社へ入社していましたが、自分を見込んでくれた会社に感動して入所。1935年のことでした。
その年の12月、久野は中尾に呼ばれ、テレビの研究開発を指示されます。参考になる資料がなかったため、岩波全書の『テレビジョン』(曾根有著)を購入し、にわか勉強を開始。これが当社のテレビの基礎研究のはじまりでした。

中尾 哲二郎 なかお てつじろう (1901 ~ 1981年)

1923年

松下電気器具製作所入所

1927年

スーパーアイロンを開発

1931年

東京中央放送局ラジオ受信機設計コンクール1等賞入賞

1932年

研究部部長に就任

1967年

松下電器産業(株)取締役副社長に就任

1975年

中尾研究所を設置、所長に就任/技術最高顧問に就任

第3章 テレビの試作機を製作し一般公開

久野は、1936年はじめに恩師の高柳健次郎教授を浜松まで訪ねます。そして、会社からテレビの研究を命じられたことを伝え、指導と援助、さらに、浜松高工で試作しているブラウン管の提供を願い出ました。その後、試作費の150円を支払って手に入れたブラウン管で、テレビ受信機の試作を開始。高柳教授からも「安全のためネオンサイン用のリーケージトランス(磁気漏れ変圧器)を使うと良い」など、さまざまなアドバイス受けながら開発を進めました。
1937年に高柳教授が、東京のNHK技術研究所でテレビ実用化の研究をはじめると、当社もこれに合わせて、1938年、ラジオをはじめとする無線機器の事業を担当した分社、松下無線が東京研究所を開設しました。所長は松下無線の責任者であった中尾が兼任し、久野をはじめとした大阪のテレビ研究部門のメンバーがここに異動。テレビ開発を加速させ、1939年に試作機を完成させました。

写真:テレビの研究開発に携わった松下無線・東京研究所のスタッフ、1938年撮影
テレビの研究開発に携わった
松下無線・東京研究所のスタッフ(1938年)

同年5月、NHKがテレビの実験放送を開始します。この頃には日本の電機メーカー各社がテレビ受像機の開発に力を入れており、各地で公開実験が行われていました。当時のテレビ受像機は使用電力が300Wで、価格は3,000円程度(現在の貨幣価値に換算すると約300万円相当)でした。当社も同年7月に特許局陳列館で開催された電気発明展覧会にテレビの試作品を出展し、NHKの実験電波の受像を公開しました。当社がテレビを一般公開したのはこの時が最初でした。
しかし、その後国際情勢の悪化に伴い、テレビ開発の第一目標であった東京オリンピックは返上され、NHKの実験放送も1941年6月に中止となってしまいました。

写真:電気発明展覧会で実験放送に成功したことを伝えた社内新聞、1939年撮影
電気発明展覧会で実験放送に成功したことを
伝えた社内新聞(1939年)

久野 古夫くの ひさお (1915 ~ 2009年)

1935年

浜松高等工業高校電気科卒業
松下電器製作所(現、パナソニックグループ)に入所、テレビ受像機の研究に着手

1953年

前年に提携したフィリップス社に派遣され、テレビの設計技術を習得
松下電器産業(株)テレビ工場長、テレビ事業本部技術部長などに従事

1977年

松下電器産業(株)を定年退職
テレビジョン学会 丹羽・高柳功績賞受賞

ご協力ありがとうございました 「第1部 テレビジョン技術のはじまり」コーナーに数多くの貴重な資料をご提供いただきました。

静岡大学様よりメッセージ

国立大学法人静岡大学 電子工学研究所
教授/電子工学研究所副所長
博士(工学)青木 徹 氏

写真:国立大学法人静岡大学 電子工学研究所教授、電子工学研究所副所長、博士(工学) 青木徹氏

静岡大学が所有するテレビジョンの初期の資料を広くご紹介する機会をいただき、心から感謝申し上げます。テレビの父「高柳健次郎」博士が描いた夢は、単に映像を身近に見ることができる「技術」だけではありませんでした。最初は自らの母親に、そして戦後は日本の復興や人類の幸福のために研究を続け、この思いに基づいた成果は、100年近く経った現代において当たり前の技術として私たちの生活に溶け込んでいます。
パナソニックミュージアムで展示される様々な技術や製品がいつの日か人々の幸せを築く「当たり前の存在」となることを信じています。今回の展示が、そのきっかけとなり得ることを心より願っております。

国立大学法人静岡大学
高柳記念未来技術創造館 電子工学研究所
特任助教 加瀬 裕貴 氏

写真:国立大学法人静岡大学 高柳記念未来技術創造館 電子工学研究所、特任助教 加瀬裕貴氏

この度の企画展に参画でき、大変嬉しく思います。普段、高柳記念未来技術創造館では高柳健次郎先生の偉業を紹介していますが、パナソニックグループのテレビへの取り組みは、高柳先生の「チーム研究」と同じく、一人ひとりの熱い思いがイノベーションを生み出すことができたのだと思います。現在、インターネットを通じて多くのメディアが日々誕生しており、大学にはブラウン管のテレビを見たことがないという新しい世代が毎年やってきています。この企画展を通じて、若い世代にもテレビの変革期にあった情熱や創意工夫を少しでも知ってもらえればと思います。

写真:高柳記念未来技術創造館の外観と内観
高柳記念未来技術創造館(外観/内観)
画像:高柳記念未来技術創造館の住所

人々の生活に深く関わってきた大ヒット製品や話題を呼んだ製品の実物を、社会の動き、放送の変遷と合わせてご紹介。

テレビ開発で培った諸技術が進化し、さまざまなビジネスに拡がる様子をご紹介。

関連リンク

パナソニック ミュージアム