失敗に終わった提携
1925年、日本でラジオ放送が始まった。そして、この新たなメディアの普及が進むにつれ、「松下もラジオの商売を始めよ」という声が代理店から上がるようになる。もちろん松下幸之助もラジオの将来性には注目していた。だが松下電器にはラジオの技術がない。幸之助は提携によりラジオ事業に参入することにした。
当時のラジオといえば故障するのが当たり前。そうした状況に辟易していた幸之助は、1930年、信頼のおけるラジオメーカーと提携して製造会社を設立し、事業を開始する。ところが始めてみると、故障返品の連続である。提携先は故障をなくすのは不可能だと主張するばかり。納得のいかない幸之助は提携を解消した。
ラジオの年度別 全国受信者数の推移
(日本放送史〈日本放送協会「業務統計要覧」による〉より抜粋)
「当選号」の苦闘
自社開発を決意した幸之助は、「故障のないラジオ」の開発を研究部長の中尾哲二郎(後の技術担当副社長)に命じる。中尾は一から技術を習得し、JOAK(現・NHK東京)が開催していたラジオの設計コンテスト入賞を目標に、開発を進めた。そして試作機が見事一等を獲得する。1931年、これをベースにした松下製ラジオ1号機R-31が、「当選号」の名で華々しくデビューした。
けれども売れ行きは芳しくなかった。中尾は回想する「JOAKもほめてくれ、こちらも天狗になったわけです。それで売り出したところが、売れない。なぜ売れないかというと、妨害電波を出さないようにしている。ちょっと再生を遠慮している。すると、放送局の近くだったら十分実用になるが、ちょっと離れたところになると放送電波が弱いので、再生不足が起きる。こんなのあかん、というわけです」。結果、ラジオ事業は大赤字を計上した。幸之助は営業と工場の関係者全員を集めると、3時間にわたり叱責、説教を続け、「井植(歳男)、お前がラジオをやれ!」と命じた。1933年のことである。これが事業部制の開始にもつながった。
<動画>「故障のない」ラジオを開発
名機誕生、さらなる普及へ
第1事業部となったラジオ事業の巻き返しが始まる。開発・製造・販売の衆知が結集され、この年、不朽の名機R-48が誕生した。価格50円の高級品にもかかわらず、「当選号」の弱点を克服し、山間僻地でもラジオを楽しめるようにしたR-48に、全国各地から注文が殺到した。
幸之助の志は、さらに高かった。日本の社会にラジオをより広く普及させるべく、R-48の半値の製品開発を命じたのである。R-48の仕様を忘れ、ラジオに必須の機能のみに絞り込む。主要部品の内製化を進める。そうした挑戦から生まれたのが23円のR-10と、そのキャビネットをプラスティック製(日本初)にした27円のR-11である。どちらも大ヒット。1936年、谷崎がラジオ商を国粋堂と名付けた年の発売であった。
<展示解説動画>
(左から)ラジオ R-31、R-48、R-11