デザインの価値を貴び、専門組織を創設
幸之助の製品への思い
戦時中の1942(昭和17)年、幸之助は「商品には親切味、情味、奥ゆかしさ、ゆとりの多分に含まれるものをつくり出し、需要者に喜ばれることを根本の信念とすること」という通達を出しています。資材の入手さえ困難であった時期に、製品をつくるだけでなく、使い手に快適さ、心情的満足も提供することを意識していました。また、ものづくりに対しても「大量生産品であっても、手に取ってみると、工芸品の如く精密で正確なものをつくらねばいけない。伝統工芸の如く、妥協を許さない精微なものづくりが必要である」という言葉を残し、完成した製品一つひとつに実用美を求めました。そして、1951(昭和26)年にアメリカでデザインを貴ぶ価値観に出会い、その信念はゆるぎなきものとなったのです。
自らが指揮を取り、デザイン強化を
約3か月間に及ぶ、アメリカ視察から帰国した幸之助は、1951(昭和26)年6月1日の本社合同朝会で、アメリカ視察の成果を今後の経営に生かして、一層の発展を約束したいと語り、そのための組織改革を発表しました。その一つが、これまで各事業部門で行っていた宣伝業務を本社に統合し、社長の幸之助が自ら宣伝部長を務めることでした。これには二つのねらいがありました。一つは、戦争のため中断を余儀なくされた「わが社の宣伝は、製品をお知らせすると同時に、松下電器の人生観、社会観を浸透させていくことを目的とする」という思いを再開すること。そして、もう一つは、全製品のデザイン検討でした。
幸之助は「いまここに、同じ絵具をつかい、同じだけの時間をかけて2枚の絵が出来たとしても、筆をもった図案によっては、その価値に百倍の差がつけられます。芸術の価値があらわれるのであります。わが社の全製品に、いよいよ科学の力が高度に発揮されることが大切なのは勿論でありますが、そこに欠けているものがあり、いちばん必要なものなのであります。それは、ラジオをはじめ全製品にあらわれるのは無論、包装の紙箱、包み紙の一つにまで、及ぼしていきたいと思います。
それは無言の、しかも恒久的な宣伝であろうと思うことにいたしております」と、思いを語りました。
(松下電器 社内時報 第21号 1951年6月15日発行)
当時、既にいくつかの企業ではデザイナーが雇用されていましたが、経営者の意思によって「デザインの企業内化」を積極的に推進したのは当社が日本で初めてでした。
1923(大正12)年に発売した当社の灯器1号機にあたる「砲弾型電池式ランプ」は、幸之助自身が、図面を引きデザインした製品です。漆で塗られた木製の流線形のボディには、幸之助の“かたち”への思いが詰まっており、当社の製品デザインの原点と言えます。
また1939(昭和14)年に兵庫県西宮市に建築した自宅「光雲荘※」は、幸之助が300年後の文化遺構になるようにと建築設計を指示した家です。それは「300年後ぐらいには、おそらくこの時代の日本建築が、いろいろと吟味されたり、参考にされたりするだろう、そのときに役立つものにしておきたい」という未来の建築デザインへの思いからでした。幸之助は、この光雲荘のダイニングテーブルの照明を自らデザインしています。
さらに、1933(昭和8)年に門真に建設した第三次本店の外観や内装にも幸之助は拘り、さまざまなデザイン的意見を出しています。現在の松下幸之助歴史館の貴賓室(非公開)にある照明もその一つで、中の電球はLEDに変わっていますが、幸之助自身が図面を引いて注文したものを現在も使用しています。
※現在は、大阪府枚方市にあるパナソニックの研修施設に移築されている。
1958(昭和33)年のこと、テレビの新製品を発売するに先立ってデザインの検討会が開かれました。
テレビ事業部のデザイナーや技術者が5、6台テレビを持ち込み、幸之助を始めとする役員に見てもらう機会で、みな新しいデザインの新製品でした。口の悪い役員の一人が、1台のテレビを見るなり言いました。
「なんや、このブタみたいなデザインは」
デザイナーにも言い分があります。
「テレビというのは、ブラウン管がこれだけ占めていますから、それに制約されて、変えるところは、つまみとチャンネルぐらいしかありません。そんなに変わり映えするようなデザインはできません」
そのやりとりを聞いていた幸之助が、ふとこんなことを言い出しました。
「地球上に、いま、何人の人間がおるんや」
技術者が「30億人ほどでしょうか」と答えると、幸之助は「2、30億おるな。パーツの数、一緒やで」と言い、こう続けました。
「目が2つで、鼻が1つで、口が1つでな、テレビより面積は小さいけど、顔はみんな違うわな。神さんはデザイン上手やな」
“神さんのデザイン” という言葉に頭を殴られたようなショックと恥ずかしさを覚えて事業部に戻ったデザイナーは、さっそく改めて検討を開始しました。
(2010年度松下幸之助歴史館企画展「松下幸之助 電気需要者は何を望んでゐるか」より)
このコーナーでの実物展示品
「松下のかたち」の確立を目指して
真野が説いた「MAYA(Most Advanced Yet Acceptable)」
真野は部下のデザイナーたちにアメリカのインダストリアルデザイナーのレイモンド・ローウィ※の“MAYA”段階という考え方を説きました。人は先進的すぎて理解できないものには畏れと反感を抱きます。松下のデザインは、未知のものへの畏れを抱かせず、新しいものに対する期待と憧れを刺激し、使ってみたいと思わせる“Most Advanced Yet Acceptable(先進的でありながら受け入れられる)”段階を具現化することを目指しました。そして、他部門の責任者には、デザインは表面的なスタイリングのみを意味するのではなく、「モノが使われる場所や使われ方も含めた設計思想である」ということを理解してもらおうと努めました。真野は、製品デザインを生み出すと同時に、インダストリアルデザインに対する理解を社内に広めるスポークスマンの役割も担いました。
※レイモンド・ローウィ(仏:Raymond Loewy、1893-1986)は、フランス、パリ出身のデザイナー。主にアメリカ合衆国で活動し、インダストリアルデザイナーの草分けとして知られている。日本では、JT の「ピース」のパッケージや、不二家の「ファミリーマーク(Fマーク)」のデザインを手掛けている。
技術と連携、そして経営に直結した部門へ
扇風機20B1は、真野による初の「松下デザイン」であり、これ以降、あらゆる製品のデザインが製品意匠課に持ち込まれるようになりました。しかし当時は、デザインプロセスへの理解のなさから、「この場ですぐにやってくれ」という無理な依頼も少なくなかったといいます。
2年後の1953(昭和28)年、製品意匠課は宣伝部から中央研究所の技術部門へ移管されました。
これによりデザインを単なる表面的なスタイリングにとどめず、次々と開発される新技術や内部機構設計と一体化させるために、開発段階からデザイナーが関わることを求められるようになりました。また、それまで不足がちだった技術への理解や、製造やコストへの知識を深めて、より具体性のあるデザインが提案できるようになったことは大きな成果でした。
そして、1973(昭和48)年には、技術部門の傘下にあった意匠部を「意匠センター」へと改組。
デザインは経営に直結した位置づけとなり、デザイナーの総数は200名を超えました。パナソニックのデザインは、黎明期のこれらの活動や思いをDNAとして継承し、今日に至っています。
社内デザイナーの育成に力を入れた真野は、1966(昭和41)年より自身が指導者となり、デザイナーの発想力と造形力の向上を狙った教育訓練を行いました。若手デザイナーたちは「とり」をテーマにした造形訓練を通じて、改めて造形の厳しさと楽しさを知りました。
真野自身が作成したこの「木のからす」は、工業デザイン視察団の一員として渡米した際に、デザイナーのチャールズ・イームズ氏(米、1907-1978)の自邸を訪問したことにちなんで制作したもので、イームズチェアをオマージュした脚が特徴的です。
デザイン部門創設30周年を前にして1980(昭和55)年に発刊された『松下のかたち』。そこに掲載する製品を選定するにあたり、選定部会はまず、“松下のかたち”とは何であるかを討議しました。
その結果、製品とそのデザインは、その企業の理念を表すこと、また、松下電器のデザイン理念は、経営理念に基づいて「社会に幅広く受け入れられるデザインを創り出す」ことであり、従って「“松下のかたち”とは松下電器のデザイン理念をよりよく反映したデザインである」ということを改めて確認し合いました。
このコーナーでの実物展示品
主な賞について
グッドデザイン賞
1957年に通商産業省によって創立された「グッドデザイン商品選定制度」を母体とする、わが国唯一の総合的デザイン評価・推奨制度。2011年より、公益財団法人日本デザイン振興会が主催。
グッドデザイン・スーパーコレクション
1996年にグッドデザイン商品選定制度40周年記念「時代を創ったグッド・デザイン」展のために過去の選定品から選ばれた約500点のコレクション。わが国のデザイン発展の上で重要な意味を持つとされた。
i F デザイン賞
国際団体「インダストリーフォーラム デザイン ハノーバー」が1953年に設立。国際的に権威のあるデザイン賞の一つとして知られている。
1950s
戦後復興から高度経済成長へ
1951(昭和26)年
第1回国際デザイン会議開催(ロンドン)
レイモンド・ローウィ来日
パナソニック、デザイン部門創設
1956(昭和31)年
経済白書が「もはや戦後ではない」と記述
1957(昭和32)年
グッドデザイン(G マーク)選定制度創設
1960s
高度経済成長期のピーク
1960(昭和35)年
デザインイヤー・世界デザイン会議開催(東京)
1961(昭和36)年
第1回関西デザイン会議開催(大阪)
1962(昭和37)年
第1回海外工業デザイン視察団(JIDA 主催)派遣
1966(昭和41)年
家電製品、日本調スタイル、ネーミング流行
1968(昭和43)年
日本のGDP、世界2位に
1970s
オイルショックを経て安定成長へ
1970(昭和45)年
日本万国博覧会(EXPO'70)開催(大阪)
1971(昭和46)年
TシャツとGパン、爆発的流行
1973(昭和48)年
第1次オイルショック
第8回世界インダストリアルデザイン会議開催(京都)
1976(昭和51)年
ニューファミリー登場
1980s
ライフスタイルの多様化と、バブル到来
1984(昭和59)年
ポストモダンブーム
1985(昭和60)年
つくば科学万博開催
1987(昭和62)年
レトロブーム
1989(平成元)年
平成に改元
世界デザイン博覧会開催(名古屋)
1990s
情報化社会の到来と、エコ意識の高揚
1991(平成3)年
バブル崩壊
1994(平成6)年
製造物責任法(PL 法)公布
1995(平成7)年
マイクロソフト社、Windows95 発売
1996(平成8)年
G マーク制度40年、スーパーコレクション選定
1997(平成9)年
地球温暖化防止会議開催、「京都議定書」採択
2000s
デジタル化・ネットワーク化の急進
2003(平成15)年
地上波デジタル放送開始
2005(平成17)年
日本万国博覧会「愛・地球博」開催(愛知)
2008(平成20)年
アップル社、iPhone を日本で発売
リーマンショック発生
パナソニックに社名変更、ブランド統一
2010s
持続可能な社会への模索
2010(平成22)年
日本のGDP、世界3位に転落
2012(平成24)年
パナソニック、デザインフィロソフィー制定
東京スカイツリー竣工
2015(平成27)年
国連サミット、SDGs を採択
2019(令和元)年
令和に改元
2020s
現在、そして未来へ
2020(令和2)年
新型コロナウイルスのパンデミック
2021(令和3)年
1年遅れで東京オリンピックを開催
2022(令和4)年
パナソニック、事業会社制に移行
このコーナーでの実物展示品
パナソニックデザインが大切にしていること。
人の想いを察し、場に馴染み、時に順応していく。それは、日本文化が培ってきた独創性であり、わたしたちが自然と育んできた感性そのものです。
世の中が大きく変化し、価値観が多様になる中、わたしたちは、豊かなくらしや社会を丁寧に考え、価値ある体験や、美しい形・空間として描いてきました。
さりげない心配りがされていたり、求めることが、場にすっと溶け込んでいたり、様々な変化に応え続けることで、誰もがふとした瞬間に、幸せを感じられる。そんなくらしや社会をわたしたちは大切にしていきたい。
領域を超えた先に広がる未来を問い、誰もが健やかに過ごせる大切な日々を、丁寧に、そして誠実に創りつづけていきたいパナソニックデザインは、人に喜ばれることを何よりも大切にするクラフトマンシップの精神を胸に、これからも、未来を紡ぎつづけていきます。
人の想いに応え、社会を見つめ、未来を丁寧に創りつづける。
それが、パナソニックのデザイン。