少年・松下幸之助の船場奉公時代 ―すべてはここから始まった― 少年・松下幸之助の船場奉公時代 ―すべてはここから始まった―

パナソニックの創業者・松下幸之助は、1904(明治37)年11月23日、故郷の和歌山県から、ひとり大阪に旅立ち、1910(明治43)年6月まで、商売の本場である船場で丁稚として働きました。独立開業し、実業家として成功したのちも、この丁稚奉公時代は自らの基礎をつくった日々であったと述べています。
丁稚奉公の生活は、大阪市南区(現・中央区)八幡筋にあった宮田火鉢店から始まりました。後年、幸之助は「晩、店をしまって床にはいると母のことが思い出されて泣けて仕方がなかった。これは初め四、五晩も続いたし、時を経て後も時々思い出しては泣けてきた」と回顧しています。1905(明治38)年2月には大阪市東区(現・中央区)船場堺筋淡路町の五代自転車商会に移り、店主の五代音吉と、妻のふじ、音吉の兄で全盲の五代五兵衛、そして父・政楠から、商売や人生におけるさまざまな訓えをしつけられ、多感な少年時代を過ごしました。
幸之助は後年、「松下電器ガ将来如何ニ大ヲナストモ、常ニ一商人ナリトノ観念ヲ忘レズ」と社員に述べています。彼の言う「一商人」とは、どのような体験に支えられ、どのような思いが込められていたのでしょうか。今回の企画展示では、幸之助の丁稚奉公時代の日々を紹介し、商人としてのルーツに迫りたいと思います。

監修:PHP研究所

※ このコンテンツは、2020年2月24日から5月23日まで開催されたパナソニックミュージアム「松下幸之助歴史館」の企画展「少年・松下幸之助の船場奉公時代―すべてはここから始まった―」を Web用に再編集したものです。

幸之助 少年時代の年表 1894年 和歌山県に生まれる。1901年 雄尋常(おのじんじょう)小学校に入学。1904年 大阪に向かう。宮田火鉢店で奉公スタート。1905年 五代自転車商会へ奉公替え。1910年 路面電車の姿を見て、電気の仕事を志し、五代自転車商会を辞す。

もくじ

第1章 和歌山から来た少年 第1章 和歌山から来た少年

和歌山から商都・大阪へ

和歌山の生家は村でも上位に入る小地主で、かなりの資産家であったが、幸之助が4歳のとき、父が米相場で失敗、先祖伝来の土地を人手に渡し、単身大阪に働きに出た。その父から母のもとに、「幸之助も4年生で、もう少しで卒業だが(当時尋常小学校は4年制であった)、大阪八幡筋にある心やすい火鉢店で、小僧がほしいとのことである。ちょうどよい機会であるから幸之助をよこしてほしい」という手紙が届いた。
当時の南海鉄道(現・南海電鉄)紀ノ川駅から幸之助は、一人汽車に乗って大阪に向かった。1904(明治37)年11月23日、満10歳の誕生日を迎える4日前のことである。
駅まで見送りに来た母は、心配と寂しさで胸が締めつけられる思いだったのであろう。「体に気をつけてな。先方のご主人にかわいがってもらうんやで」と、目に涙を浮かべながら、こまごまと幸之助に言って聞かせた。
幸之助も、母と別れる寂しさと、初めて汽車に乗るうれしさ、商都といわれる大阪へのあこがれと、悲喜こもごもの言いようのない思いでいっぱいであった。この晩秋の紀ノ川駅での情景は、いつまでも幸之助のまぶたに焼きついて離れなかった。
晩年、幸之助は、「今静かに考えてみますと、9歳の子どもを、自分の膝元から遠く手放さなければならなかったことは、母としてこの上なくつらいことであったにちがいないと思います。そして、おそらくそのときの母の思いは、大阪へ行ってからのぼくの幸せ、健康というものを、言葉では言い表せないくらい心に念じていてくれたように思います。ぼくが幸いにして健康に恵まれて長生きし、これまで仕事を進めてくることができたのも、やはりそうした母の切なる願い、思いの賜物であろうという気がしてならないのです」と述べている。

幸之助にとっての船場

船場での6年間を幸之助は、「今日の商売の一つの基礎になっていると思う」と語っている。また、往時の船場商人についても、「船場の盛んな時代は、大阪の商売人は江戸の人よりも、度胸があった。それは商売に対する真剣さからくるものだったと思う」と述べていた。幸之助はよく社員に「商売は真剣勝負」と諭していたが、その思いの背景には船場の商売人の姿勢に、大きな自負を持っていたからだといえよう。

当時の船場周辺の地図

船場の幸吉っとん

1904(明治37)年11月、火鉢屋の小僧として、幸之助の大阪での生活が始まった。船場の風習で、本名ではなく「幸吉っとん」と呼ばれるようになった。
最初の奉公先の宮田火鉢店は、八幡筋を御堂筋から西に入ったところにあり、親方が何人かの職人を使って火鉢を作って売るという半職半商の商店であった。
幼い幸之助の仕事は、掃除や子守が主で、その合間に火鉢を磨くといった程度のものであった。仕事自体はさほど辛いものではなかったものの、母親と別れた寂しさに床の中で泣く日が何日も続いたという。
小僧としての給料は、毎月1日と15日に5銭ずつであった。現在の500円ほどに当たるであろうか、給料というより子供の小遣い程度のものだが、郷里ではそんなまとまった金をもらったことのない幸之助には、非常にうれしいものであった。それから80年もたった満90歳のころ、今まで一番うれしかったことは何かと人から問われて、この時の5銭の思い出を挙げているほどだから、よほど心に残ったのであろう。
この宮田火鉢店は、幸之助が入ってからわずか3カ月で店をたたんだため、幸之助は親方の知り合いの五代音吉のもとへ移ることになった。五代氏は、その頃流行りかけていた自転車店を始めるにあたって小僧を探していたところであり、また、その兄の五代五兵衛が創立した私立大阪盲唖院に幸之助の父が務めているという具合で、実に好都合な店であった。
五代自転車商会は、1905(明治38)年2月に堺筋淡路町二丁目で開業したが、2カ月後に内久宝寺町に移転している。

五代自転車商会にて。主人音吉夫人ふじと10歳の幸之助。これが人生初の写真。ある日、写真屋が店に来て全員で写真を撮ることになっていた。ところが、配達から帰ってくると、すでに撮影は終わっていた。しくしくと泣く幸之助に、ふじは2人だけで写真屋に行くことを提案し、撮られた1枚。

第2章 幸之助を導いた人たち 第2章 幸之助を導いた人たち

幸之助の企業家精神を育んだ場所

商人としての修業を重ねる幸之助が、いつしか志を抱き、のちに見事な企業家精神を発揮できたのはなぜだろう。そこには幸之助を導いた市井の人々がいたからだと考えられる。中でも五代音吉、その兄の五兵衛は幸之助親子に関わり、その人生に大きな影響を与えた。

幸之助の2つ目の奉公先となった五代自転車商会の主人・五代音吉。音吉も7歳で最初の奉公に出て以来、さまざまな仕事を経て、時に失敗を重ねたが、国民に普及しつつあった自転車店の経営に乗り出し、成功した。顧客を大切にする律儀な商売観の持ち主であった。
その音吉の兄である五代五兵衛は、播磨屋と号する米商人の長男に生まれた。利発で将来を嘱望されていた五兵衛は15歳の時に化膿性結膜炎によって全盲となった。家業を失い、その上早くに父も亡くし、障がい者の身で弟妹を養うためにあんま業を営む。多くの人の信頼を集め、強い意志と並はずれた記憶力によって、五兵衛はあんま業から、周旋業(人や不動産の紹介)に転じて事業家として大成する。財を成した五兵衛は、弟の音吉と障がい児を救済すべく、私立大阪盲唖院を創立した。
この私立大阪盲唖院で院主・五兵衛の仕事を手伝ったのが、和歌山から大阪へ出ていた幸之助の父・政楠であった。政楠は私立大阪盲唖院の「書記兼舎長」として働いていた。同じ大阪市内で生活していたため、時には幸之助の様子を見ることもできたであろう。

こうして幸之助が身をおいた音吉の五代自転車商会、政楠が身をおいた五兵衛の私立大阪盲唖院は、ともども幸之助の重要な人生の場となり、幸之助は商売人としての修業の日々を送っていくのである。

松下親子と、五代兄弟との関係
松下政楠・幸之助親子と五代五兵衛・音吉兄弟の関係

五代自転車商会における日々の仕事

幸之助のことば

── 自転車屋の小僧としての私の仕事は、朝晩の拭き掃除、陳列商品の手入れ、これは必ず毎日一回やったものである。
それから自転車の修繕の見習い、手伝いで、自転車の修繕といえば、まあちょっと小鍛冶屋のような仕事で、店には旋盤やボール盤の設備もあり、これらの使用も見習ったのである。
私はこういう鍛冶屋のような仕事が好きであった。したがって仕事には飽きやきらいが少しも感ぜられなかったのみならず、毎日愉快に働けた。
その当時は旋盤を回すのにも電力の設備などあろうはずはなく、職人が旋盤を使う手回しをやらされたものである。
これにはさすがに弱った。10分や20分は元気よく力を入れてプーリー(滑車)を回しているが、30分、40分になると疲れがきてだんだんと腕が鈍ってくる。すると職人に小金槌でコツンと頭をたたかれたものである。ちょっと考えると乱暴なようであるが、その当時の職人気質というものはすべてこんな手荒なもので、皆こうしてたたき込まれ、一人前の職人になるというような習慣の残っておった時代であるから、いかに悲憤慷慨しても問題にならない。いや、問題にするというようなことがすでに問題になるというような時代であった。しかしこの時代でも、そういうふうな素朴な手荒さのなかには、やはりあたたかい情というもののあった懐かしさが今でも思い出される。 ──

松下幸之助『私の行き方 考え方』PHP研究所

大正初期の五代自転車商会
五代 音吉

五代 音吉

1866(慶應2)~1939(昭和14)年 73歳

五代自転車商会店主。周旋業を営む五代五兵衛の弟。丁稚奉公時代の幸之助の主人。のちに6代目五兵衛を名乗る。幼少の頃から長兄五兵衛の片腕として事業を支える。他店での3度にわたる奉公生活のあと、兄の支援を受け油・ろうそく店、湯屋、質店を営むがいずれも廃業、兄の事業を手伝い、盲唖院設立にも奔走する。
1905(明治38)年2月五代自転車商会を開店。

音吉の流儀

  • 洋釘店の奉公時に輸入に関わった経験から、自転車の部品を輸入し、「キング」「ライン」「エトナ」自店ブランドを開発した。(下、ブランドマークの写真)
  • 適正価格にこだわり、安易な値下げには応じなかった。
  • お客様大事、お得意先大事を貫いた。

音吉から得た教訓

幸之助のことば

── いましずかにこの小僧時代をふりかえって思うことは、五代さんから叱られつつも、身をもって知り得た商売のコツなり、その他のいろいろな体験こそ、その後のわたしにとって、何ものにもかえがたい一つの貴重な宝であったということである。もしこの奉公時代のいろいろな体験がなかったなら、おそらくわたしの今日はなかったろうという感じさえ強くする。いってみれば、世の中のどんな立派な学校よりも、わたしにとっては一番いい学校で学んだと、つくづく思われるのである。 ──

松下幸之助「忘れ得ぬ人 わたしの丁稚時代のご主人」『家の光』家の光協会

商売人・音吉の持ち味

幸之助のことば

── 五代さんの商売ぶりには、非常にすぐれた持ち味がありました。
というのは、自転車を販売するについては、その価格を自分で決めて売るわけですが、お客さんは、たいていもっとまけてくれということを言われます。それに対して五代さんは、「私はこの価格を非常に勉強して決めていますから、これ以上は絶対まかりません。これをまければ利益がなくなってしまいますし、私は利益をなくして販売することはよういたしません。それでは長く続きませんし、サービスもできませんから……」とはっきり断わられます。
しかし、その一方で、お客さんに対して常に礼を尽くすということを徹底して実践してもおられました。つまり、販売とか集金というものは、商売ですから厳格に行なうけれども、お得意さんに対しては心からの感謝の念を持ち、何か事があったときにはいち早くかけつけてお手伝いするのが商売人としての務めである、という考えに立って、たえずお得意先のために奉公、奉仕していました。
それは具体的には、たとえば売った品物を売りっぱなしにせず、お得意先でうまく役にたっているかどうかを聞きにまわるということです。折あるごとにお得意先に対する感謝の気持ちを態度に表わしておられました。ですからお得意さんも非常に満足されて、同じものであれば五代の店から買おうということになって、どんどん繁盛していったわけです。 ──

松下幸之助『折々の記―人生で出会った人たち』PHP研究所

五代 五兵衛
所蔵:大阪府立中央聴覚支援学校

五代 五兵衛

1849(嘉永元)~1913(大正2)年 66歳

私立大阪盲唖院院主。明治時代の社会事業家。15歳で失明するが、不動産業などで成功。1900(明治33)年大阪盲唖院を開校し、京都盲唖院の創立者・古河太四郎を院長に招く。1907(明治40)年校舎などを大阪市に寄付、学院は市立大阪盲唖学校と改称された。その後も精力的に活動するが、知人宅からの帰りに電車に接触して6日後、死去。

五兵衛の流儀

  • 人は裸で生まれて裸で死ぬ
  • 物欲にあくせくするものに本当の事業はできない
  • 物欲を離れて、事業そのものに三昧の境地を求める
  • 誠実な熱意が人を動かす

波乱に富んだ五兵衛の商売歴

盲目の身ながら五兵衛は様々な商売に挑戦した。まず音吉とともに青物商を始めたが失敗、あんま業をしながら周旋(人の紹介)の仕事をしていく。その一方で、当時ウサギがペットとして流行すると、それにも手を染め、ウサギ市を立てられるほど繁殖させた。ところが東京への進出に失敗し、ウサギの飼育事業から手をひいた。その一方で周旋業は不動産にまで広がり、五兵衛は広大な屋敷も手にするまで資産を得た。
さらに五兵衛は日歩頼母子会社を設立、金融業に参入し、これもまた成功を収めた。
ところが、1875(明治8)年に太政官令が改正され、借用証書は身代限りを以て終わりとされると、債務者はこの法令を盾に返済を滞らせるようになり、一気に資金繰りが悪化。
窮地に陥った五兵衛は天満川(大川)に入水自殺を試みる。
偶然、通りかかった知人に抱きかかえられ、死を思いとどまった五兵衛は、広大な屋敷を出て借家に移り、屋敷を人に貸して家賃を得ては返済に充て、一方で今度は湯屋(銭湯)業を始める。これもまた成功させ、店舗も拡大したが過剰な投資をしたために、経営が悪化。これもまた手を引くことになった。結局、周旋業を着実に拡大させ、とくに不動産売買によって、成功と失敗をくり返しながら、五兵衛は莫大な資産を築いたのである。

五兵衛から得た教訓

幸之助のことば

── とくに強く感じたことの一つは、やはり何をするのでも、結局は誠実な熱意がものをいうということです。
お互いの仕事でも何でも、それに臨む心がまえとして大事なことはいろいろありましょうが、いちばん肝心なのは、やはり誠意あふれる熱意だと思います。知識も大事、才能も大事であるには違いありませんが、それらは、なければどうしても仕事ができないというものではありません。たとえ知識が乏しく才能が十分でなくても、なんとかしてこの仕事をやり遂げよう、なんとしてでもこの仕事をやり遂げたい、そういう誠実な熱意にあふれていたならば、そこから必ずいい仕事が生まれてきます。その人自身の手によって直接できなくても、その人の誠実な熱意が目に見えない力となって、自然に周囲の人を引きつけます。目には見えない磁石の力が、自然に鉄を引きつけるように、誠実な熱意は、思わぬ加勢を引き寄せ、事が成就するということが多いと思うのです。
これはお互いが人生を生き抜くうえにもあてはまることで、これを文字通り身をもって実践されたのが、五代五兵衛さんだった。そうぼくは思うのです。 ──

松下幸之助『折々の記―人生で出会った人たち』PHP研究所

私立大阪盲唖院とは

大阪府立中央聴覚支援学校のホールで向き合って立っている五代五兵衛像(左)と音吉像(右)

1891(明治24)年、42歳になった五代五兵衛は多忙な周旋業に勤しむなか、ある心境の変化を感じたという。それはかつての貧困との闘いのためにあくせくと働いていた日々とは異なり、充分に私財を貯め、物欲に身を任せることもできるようになった自分への疑問であった。
自分にふさわしい余生をどう過ごすかを考えた五兵衛の頭をよぎったのは、自分が失明した時の困難であった。
自分と同じような境遇の子供たちへの盲唖教育に身を投じたい、そう決心した五兵衛は、1899(明治32)年、音吉とともに、ある人物の講演を聴くために京都にある盲唖院に赴いた。講演者は日本で初めて盲唖教育を提唱し、日本初の京都盲唖院(現在の京都府立盲学校・京都府立聾学校)の創設者である古河太四郎であった。
古河の講演を聴いた五兵衛は、当時、頓挫していた大阪の盲唖教育を憂い、私財を投じて盲唖院を創設することを決心する。そして、1900(明治33)年9月13日、大阪市東区本町4丁目浄久寺(現在の相愛中学校・高等学校南側付近)に五兵衛を院主とする私立大阪盲唖院を開設した。初代院長には、講演を聴講した古河太四郎を招聘すること成功している。
開校2カ月後の11月30日には、大阪市南区塩町通1丁目15番地・16番地(現在の中央区南船場1丁目付近)に移転。幸之助は五兵衛の書記を務めていた父・政楠に会うため、また五兵衛が五代自転車商会に来た折には帰り道、五兵衛の手を引いて盲唖院に送り届ける役目を果たしていたという。
その後、盲唖院は1907(明治40)年4月18日に大阪市に移管され、現在の大阪府立中央聴覚支援学校、大阪府立大阪北視覚支援学校となっている。

父・政楠が幸之助に残したもの

かつての松下家の長屋門
左写真奥の松の木の現在の姿

父・政楠の思い出

幸之助のことば

── 小僧生活をして商売の道を見習っている私の姿を、父はどんなに期持していたであろう。私は子供の時分、腸が少し悪かったためであろうか、びろうな話だが、よく大便をしくじったものである。ある時も自転車に乗って使いに行って帰る途中、腹がシクシク痛みだすと同時に大便を催してきてもうどうしても辛抱できず、とうとう自転車に乗りながら下してしまった。ところが、自転車にまともに乗っておらなくて横手から中立ちであるから、かえってよけいに催すようなかげんになっていたので、自転車を糞だらけにして、きたないやら情けないやら、始末することもようせず、泣き泣きそのままの姿で父のいる盲唖学校に走り込んで、父にそれを話して泣きだした。父はその姿を一目見てビックリして、どうしたのかどうしたのかと声を立て立て、それでもいたわって、その始末をよくしてくれた。この時のことを、今でも思い出して父の愛の深さにしみじみ打たれるのである。
こんなことに似たこともちょくちょくあって、その都度父にめんどうをかけていたが、その間にも父は口癖のように「出世しなければならん。昔から偉くなっている人は、皆小さい時から他人の家に奉公したり、苦労して立派になっているのだから、決してつらく思わずよく辛抱せよ」と言いきかせてくれた。父は先祖から受け継いだ多少の財産をなくしたことを済まぬと思うとともに、一人残った男の私の出世を、どんなにかして、と強く期待しておったことが、今静かに考えてみるとよくわかるのである。 ──

松下幸之助『私の行き方 考え方』PHP研究所

── 父は、死ぬまで、三円も持ったら、もう相場をやりました。なんとかして損を取り戻そうと思ったんでしょう。いまでもありありと憶えています。母親がしきりと止めています。二人はよくケンカをしていました。そのうち三円のカネも工面できないほどになってしまいました。食うに困って、父は大阪に出て勤めることになったのです。投機、思惑、バクチを、僕が大きらいなのは、子供のころの悲しい思い出がハダにしみついているからだと思っています。 ──

松下幸之助『道は明日に』毎日新聞社

また、政楠の影響であろうか、幸之助は店則の中に次の一条を加えている。
── 第四十五条 店員ハ所主ノ許諾ヲ得スシテ自己ノ営利ヲ目的トスル商的行為其ノ他投機的ノ行為ヲナササルコト ──

松下電器製作所店則 昭和7(1932)年

幸之助にとっての政楠の存在とは

松下政楠は、明治維新とその後和歌山にも押し寄せた近代資本主義の荒波によって翻弄された人生を送ったといえよう。和歌山県海草郡和佐村の地主に生まれ、第一期の村会議員に選ばれる一方、米相場で私財を失うことになった。幸之助は父の性格について、「多少進取の気性があり、新しものしたさの心があった」と語っているが、その性格は資本主義に伴うリスクに対してあまりにも楽天的であった。
そんな幸之助にとっての船場時代は、政楠との絆を強く結ぶことができた意義ある時代であったと考えられる。『螢窓六十年』(1961年刊)という大阪市立盲学校同窓誌には、創設まもない頃の盲唖院の証言として、「事務員のなかに松下という五十すぎの人がいた。この人は和歌山県の人で、いま日本で有数なる実業家松下電器の社長幸之助氏のお父さんである。その頃十二、三の少年がちょいちょい学校に来ていたが、それが現在の幸之助氏である」という記述がある。幸之助と政楠の交流が分かる数少ない記録である。
1902(明治35)年、私立大阪盲唖院に奉職してからの政楠は、書記兼舎長として五兵衛の秘書として活躍する。1906(明治39)年脚気衝心にて急逝するまでの4年間は、親子にとって、父の無念を息子へ伝えるという点で重要な期間であったろう。その意味で、幸之助の企業家としての成功は、父の失敗を帳消しにし、なおかつ父の思いに応えるに余りある成果であったといえよう。

第3章 修行の日々 第3章 修行の日々

幸吉っとんの奮闘努力

~自身が語る感動のエピソード集~

── 私はよく人と話をする機会があるが、あなたの成功の秘訣は何かという質問ほど、その返事に困ることはない。なるほど60年間の実業生活のなかには、私にとっていろいろと印象のふかい思い出もある。
ところが、さて成功の秘訣は何かといわれると、どうもうまく答えられないのである。いつの間にか事業が発展し、会社も大きくなってきたわけで、いわば幸運に恵まれて今日まで至ったというのが、いまの私の実感である。
しかし、あえて言うならば、私は小さいときから働くことが好きで、どういう仕事を与えられても自分なりに楽しく、また真剣にやることができたということかもしれない。もちろん、小僧奉公の時代などは、今日から考えると想像もつかないほどきびしいものであったが、子ども心ながらそれがあたり前だとわりきって、朝早くから夜遅くまで、店先の掃除や子守り、あるいは店の手伝いも、結構楽しんで働いたものであった。また、そのきびしいしつけと忙しい毎日のあけくれが、かえって勤労に対する真剣な態度と、働くことの喜びを教えてくれたと、今さらながら感謝しているのである。 ──

松下幸之助『悔いなき青春を』京都音楽文化協会

幸之助のことば

タバコの買い置き

幸之助のことば

── 自転車を修繕していると、よくお客さんがいうんです。
「ちょっと小僧さん、タバコ買うて来てくれへんか」
そうすると、1町ほど(約110メートル)先のタバコ屋まで飛んでいきます。その都度、手を洗うのは面倒でっしゃろ。仕事の能率も下がるし。そこで、ある日、20個入り1箱ごと、まとめて買ったんです。自分のカネで。1箱買うと1個余計にくれました。
箱で買うとオマケがくることを、わたしは初めて知りました。もうけるつもりはなかったけど、そのほうが楽でしたから、20個を手元に置いておいて、
「タバコ買うてきて」
「ハイ」
と、即座に渡すんです。半年ほどの間でしたがね。
月に2箱か3箱は売れる。敷島が10銭、朝日が8銭でしたから、月に2、30銭はもうかるわけです。
そんなある日、店のオヤジさんが、
「おまえ、タバコ買い置きしてお客さんに売ってるなあ。あれは、やめとき。お客さんは喜ばはるし、おまえも都合がええけど、ハタのもん(同僚)が何かとうるさい。もちろん、お客さんも大事やけど、店内もみんなしっくりうまくいかんと困る」
そのとき初めて、人と人との関係は難しいもんや、とわかりました。いま考えますと、タバコでもうけたおカネの一部なりとも出して、みんなにおごったらよかったのです。利益の還元といいますか、分配なんですね。
世の中にお世話になって、もうけさしてもらったんだから、利益をお返しすることも必要なんです。しかし、そのころは、そこまでは気がつかなかった。 ──

松下幸之助『道は明日に』毎日新聞社

お客様が喜んで、自分も儲かる。一見素晴らしいようでも、同僚やご主人など、まだまだ配慮すべき人たちがいる。周囲への気配りがいかに大切で、いかにむずかしいことか。人間通になることの重要性を幸之助はこの頃からすでに日々学んでいたのである。

小僧の改革

幸之助のことば

── 小僧時代、こんなことがあった。当時その店の奉公人は6、7人で、私は末席の方だったが、先輩の1人が店の品物をごまかすというような不正を働き、それが発覚した。そうすると店の主人は、一度だけのことだし、またその先輩が仕事の上ではなかなか役に立つ者でもあったことから、訓戒だけにとどめてそのまま店に置いておくことにした。
その時に私は「ご主人はあの人をもう一ぺん使うことにきめられましたが、私はそれに承服できません。ああいう悪いことをした人と一緒に働くのはいさぎよしとしませんから、お暇をちょうだいいたします」といった。これには主人も困ったらしいが、何もしていない私をやめさせるわけにもいかないということで、結局私のいうことが通って、その人をやめさせることになった。
今思うと、若気のいたりというか、少年の血気にはやったというか、あそこまでやらなくてもよかった、主人の気持ちも考えず、心ないことであったという気もするが、その時は、それが正しいことと一途に信じていたわけである。
ところが、それからあと店の空気がガラッと変わってよくなった。気分的に明朗になり、引き締まってきたのである。だから意図してやったことではないが、結果的には、14、5歳の末席に近い小僧にすぎなかった私が、店の改革をやったようなことになった。
これは非常に面白いところだと思う。14、5歳の小僧でも場合によっては店全体の改革ができるということである。それは、私なりにその時は職を賭し、いわば体を張って主張したからであろう。その一途さというか熱意が主人を動かしたのだと思う。 ──

松下幸之助『経済談議』PHP研究所

出すぎたようであっても、筋の通った正しい発言は、良い結果をもたらした。後年、何が正しいかを追求すること、そして、「めざめた一人の働きは、職場全体、会社商店全体にも及んで、立派な成果に結びつく」と説いていた幸之助の原点は、このエピソードにあった。

体験の尊さ

幸之助のことば

── そのころ、すぐ上の姉が逓信省の大阪貯金局に勤めていました。そこがちょうど給仕を募集していたんですね。僕を給仕にしようという話が、持ち上がりました。母が強く希望し、僕も母と一緒に家にいて、給仕のかたわら夜学へ行ったほうがいいなあ、と思いました。しかし、父に相談すると、
「そらあかん」
と反対するんですわ。
「お父さんは仕事に失敗し、先祖に申し訳ないと思うてんのや。おまえはわしのかわりに商売で身を立ててくれ。小学校中退のおまえが、いまから学校へ行ったところであかへん。それより、商売人になったほうがええ。おまえは奉公を続けよ」
父が反対なら、仕方がありません。
実は、いま、ひそかに思うことがあるんです。自分に学問の素養がなかったため、かえって早く一つの悟りを開くことができた。それで今日の姿があるのではなかろうか、とね。
小僧時代、学校には行けなかったかわりに、体験を通じ、身をもって、いろんなことを勉強しました。紙一枚にしても、その裏にひそむ値うちに気がつけば、無造作には捨てられません。“米一粒の天地の恩”とはいっても、その言葉を百万遍唱えてみたところで、米一粒の値うちはわからないでしょう。
砂糖は甘く、塩はからい。これは誰でも知っていることですが、どうしてそれがわかったのか。議論したり考えたりして、わかったというようなものではありませんね。なめてみて初めてわかることです。僕がいいたいのは体験の尊さなのです。小僧の時代に、学校へ行けなかった半面、体験を通して生きた学問を積むことができた。これはありがたかった、と感謝しているのです。 ──

松下幸之助『道は明日に』毎日新聞社

「塩の辛さはなめてみなければわからない。砂糖の甘さはなめてみなければわからない」。理論偏重にならず、身をもって学ぶことの大切さは、幸之助が生涯にわたって特に強調した理念である。この理念の原点もまた、様々な体験を積み重ねた丁稚奉公時代にあった。

価格よりも誠意が上回った初商売

幸之助のことば

── 「自転車を見せてくれ」
とお客さんからいってこられた。僕が自転車を持っていって、一生懸命に説明しました。
そしたら旦那さんが僕の頭をなぜてくれ、「かわいいぼんさんや。それ買うてやる。そのかわり一割引いとき」といって下さったんです。
「ありがとうございます」
ということで、意気揚々と帰りました。
「これ一割引いて売ってきましたでえ」
こういうと、オヤジ(音吉のこと)さんは難しい顔をして、「そない、商売人いうもんはまけたらあかん。五分引く話はあっても一ぺんに一割引く話はあらへん。もう一ペん行ってこい」
でも、こちらは引き返す気にはなれません。なんぼ小僧でも、いったん売る約束したあとや。いまさら話が違いました、とはいえた義理ではありません。とうとうシクシク泣き出してしまいました。
向こうでは、一向に持って来ない、と番頭さんがやってきました。主人が、「実は一割もまからんと怒ってたところですねん。そしたら本人が泣き出して、まけてあげてくれ、といいよりまんねん。お前は、どっちの小僧かというてたとこですわ」
それを聞いた向こうの番頭さんが、帰って旦那にそういうたんですな。旦那はきっぱりと、
「わかった。五分引きで買うてやる」
僕が、てれくさい顔をして自転車を持っていくと、頭をまたなぜてくれました。「おまえが五代にいる限り、自転車は五代で買うてやろ」というて下さったその言葉を、いまでも憶えてます。
やっぱり商売は価格だけやない。価格以上に大事なもんは誠意や。商売にはなんか心を打つ誠意がなければいかんのやないか。 ──

松下幸之助『道は明日に』毎日新聞社

適正価格を守ることの大切さを学ぶ一方、初めて自身が応対するお客様への誠意が思わぬ成果をあげたこの体験。生涯で最初に自転車を販売したときのこのエピソードにおいて、すでにコツを学んだともいえる。五代五兵衛が教えた「誠実な熱意」とも重なる。

生きた学問

幸之助のことば

── 私は晩は店番しながら、よく講談本を読んだ。私たちの小僧の時分は学問、学識というのは講談本によって得た。太閤記とか忍術使いの猿飛佐助とかを、夢中になって読んだものだ。それによって常識の涵養ができた。晩飯をすませたらかれこれ八時になる。八時から二時間、冬は火鉢にもたれて読んでいる。その間だけであった。
その時分は、むずかしい本を読む知識もなし、また本の数も今みたいにたくさん出ていなかった。講談本であればカナがふってあったから十二、三の子供でも読める。講談本は新版ものは少なくて、たいてい昔の本だった。里見八犬伝なんかもあった。徳川時代の義理人情というようなもの、武士の気質、町人気質、百姓のあり方、そういうものがそっくり出ている。多少脚色はしてあるけれども、大体において出ている。
今は通用しない点もあるかもしれないが、ある程度型は違っても、やはり義理人情に変りはない。そういうことをひじょうに習った。えらい豪傑が出てきてどうした、えらい英雄が出てきてどうした、英雄は人をどういうふうに使ったとか、それに対する論功行賞はどうしたとか、いろんなことがちゃんと書いてあるから、大体その通りやれば間違いない。実際いうと、あれは経営者の学問にそっくり当てはまる。
私の経営的な考え方、見方は自転車屋に奉公したこの7年間、昼仕事をしたあと店番しながら読んだ講談本から得たものが多い。それと、主人からお使いに行くときの口上まで教えてもらったり、お客に品物を売ってお金を受取ったり、集金に行ったり、いちいち身をもってやらされたことがみな生きた学問となって、私の今日に役だっている。 ──

松下幸之助『仕事の夢 暮しの夢』PHP研究所

「秀吉が天下を統一した過程を見てみると・・・」「もし宮本武蔵とコンピューターが決闘をしたら・・・」。幸之助の言葉の中には、歴史上の人物がしばしば登場する。これらの人物との最初の“出会い”は、実は小僧生活の合間に読んだ講談本であった。

一商人ナリトノ観念ヲ忘レズ

松下幸之助が大阪・船場で修業時代を送る中で身につけたのは、「自分は一商売人である」という意識であったといえよう。
“一商人”であることの要件について幸之助は、「商売の意義がわかること」「お客様の心が読めること」「人よりも頭が下がること」だと述べている。そして、その思いを未来に遺すべく、1935(昭和10)年制定の基本内規の中に、第15条として幸之助は条文を定めたのであった。
「一商人ナリトノ観念ヲ忘レズ」の思いは、現在のパナソニックにも息づいている。

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