2020年は、新型コロナウィルスの脅威とともにその幕を開けました。現在、日本の経済産業界は苦境に立たされています。かつて、松下幸之助も幾度となく危機に直面してきました。世界恐慌による経営難、戦中・終戦直後の苦難、家電ブームの反動による業界の危機など。しかし、幸之助と松下電器は、苦境のたびに様々な施策によってこれを乗り越え、発展をしてきました。これは決して幸之助の経営が秀でていただけではありません。その根底にあったものはなにか。それは人との「絆」です。従業員や家族、販売会社や代理店が一致団結をして、苦境に立ち向かったのです。
ここでは、苦境に立ち向かってきた史実を振返り、人との「絆」を醸成してきた足跡をたどります。コミュニケーションの形が変容しつつある今日、私たちが対峙している苦境に、一筋の光明を見出す一助となれば幸甚です。
※このコンテンツは、2020年9月5日から11月21日まで開催されたパナソニックミュージアム「松下幸之助歴史館」の企画展「絆―苦境における一致団結—」をWeb用に再編集したものです。
かつてない難局は、かつてない発展の基礎となる
――個人にしても、団体にしても、また国にしても、過去の歴史が雄弁に物語っているものは、非常に困難な情勢に直面したときに、その国の人なり、その団体なりが、その困難の実態をはっきり自覚認識して、これを何とか除去して本来の姿に戻そう、さらに発展の姿に戻そうと決意をして、その決意に基づいて懸命な努力をしたならば、偉大な発展を遂げているということであります。偉大な発展とか、偉大な基礎を築くということは、尋常一様のときには、本当はいかなる人もできないのです。よほど秀れた人でも十分できない。やはりどうしても安易に流れがちです。しかし非常な困難に直面いたしますと、そう立派な人でなくても一つの決意と申しますか、覚悟というものが生まれると思うのです。なるほど今日は非常に困難な事態であります。けれどもこういう困難なときにもなお向上心を弱めず、さらに志を固め、本来の使命に立脚して、そのなすべきことを断固としてやっていくという努力を続けていくならば、そこに必ず、かつてないほどの知恵才覚というものが湧いてくると思うのです。そしてその知恵才覚に基づいて、製造の上に、技術の上に、また販売の上に、我々の想像もできないほどの創意工夫が生み出されてくると、私は信じているのであります。またそういうことを信ずるが故に、困難に直面して、なおますます勇気が出てくるのです。ますます大丈夫の信念が生み出されてくるのであります。
松下電器は、過去において、困難に直面した時に、必ず何ものかを生み出してきています。ですから、この考えに立てば、かつてない難局であれば、それは同時にかつてない発展の基礎となるということを感得することができるわけで、この年をして、松下電器百年のために、最も貴重な年たらしめることができる。言いかえますと、本年は松下電器の真の基礎を築く年になると思うのであります。
松下幸之助(1958年度経営方針発表会)
世界恐慌で深刻化した不況の波は、やがて松下電器にも押し寄せます。
この不況を乗り越える原動力となったのは、創業期より醸成された強固な「絆」がもたらした一致団結の力でした。
幸之助と従業員で「歩一会」を結成
全員が歩みを一に
創業間もない1920(大正9)年3月、幸之助は自身も含めた全従業員28人で“全員で歩みを一にする会”「歩一会」を結成した。当時、第一次世界大戦後の不況により労働運動が急激に高まり、各地でストライキが頻発していた。幸之助は「全員心を一に、和気あいあいの内に、松下電器とその従業員の向上発展と、福祉の増進を図らねばならない」とし、その足がかりとなったのが歩一会であった。歩一会は、従業員の精神指導、福祉増進、運動会、文化活動などの実行組織となり、幸之助を中心とする全員の団結はいっそう強固になった。
EPISODE
企業体としての成長
昭和4年、事業の拡大とともに芽生え始めた使命感を「綱領」として明文化し、急増する従業員との意思統一を図った。同時に従業員のあるべき姿を説く「信条」も制定した。後の松下電工(現ライフソリューションズ社)社長・丹羽正治氏は次のように語っている。(丹羽氏は1932(昭和7)年入社)
―松下は、私の入った時代には、休みといっても月に2回で、しかも朝から晩までみんな仕事をやっていました。上の人も夜遅くまで仕事していたんで、新入りの私なんかはとても先に帰れる雰囲気なんかなかったです。それでも社員がみんな文句を言わずに働いて、オヤジ(幸之助)を尊敬していたのは、オヤジが綱領・信条にあるような理想を持ってやっていたからだと思います。
(丹羽正治『営利と社会正義の経営』より)
従業員との絆と一致団結の力
未曽有の不況を克服
1929年(昭和4)年3月、松下電気器具製作所は、松下電器製作所に改称するとともに、綱領・信条を制定。5月には新しい本店も完成し、新しい経営方針の下に積極的な活動を始めた矢先、世界恐慌が波及する。当時、幸之助は病気療養中であったが、幹部から、危機を切り抜けるために従業員を半減するほかはないと聞かされたとき、思い迷っていた心が決まった――「生産は直ちに半減する。しかし、従業員は一人も解雇してはならない。工場は半日勤務として生産を半減するが、従業員には給料の全額を支給する。その代わり店員(正社員)は休日を廃して、ストック品の販売に全力をあげてもらいたい。」この方針が伝えられた全員の間から、協力一致して危機を打開しようという意欲が盛りあがり、無休で山積みになった製品の販売に努めた。すると、2ヵ月で在庫は一掃され、工場はフル生産に入るという活況を取り戻した。
幸之助のことば
――「工員は半日勤務、あとは休んでよろしい。しかし給与は全額支給する。店員(正社員)は休みなし。店員は全員第一線に出て販売せい。そして時機を待とう。従業員の解雇はいっさいしない」と、こう決めたんですよ。(中略)そして2か月が経った。そしたら、えらいもんでんな。倉庫がカラになってしまった。命令を出したぼくもびっくりですわ。やればやれるもんですね。これでぼくに、非常に強固なものができた。「解雇しないでよかった。そういう弱い心にならないでよかった。背水の陣を敷くということがいかに強いものであるか」ということがわかった。自分の事業経営に対する信念がここで出来たわけですね。
<『《求》松下幸之助経営回想録』より>
EPISODE
人を大事にする会社
――馘首(かくしゅ)。いやなことばだ。ゆえなく解雇されることに対する恐怖感は、いつの時代の労働者の胸底にもひそむものだ。まして、大恐慌。松下という会社は、人を大事にする会社らしい。噂はパッと広がった。私は考える。昭和4年、松下は企業として労働者に回答した。人間尊重。この4文字は松下繁栄の根本に確立されたのである。不況の中で、松下の従業員は、総じて明るい顔をしていた。私の瞼に、今も焼きついている。
<後藤清一『叱り叱られの記』より>
※後藤氏は後の三洋電機副社長
緊縮に負けず発展へ
初荷行事を盛り上げる
何とか市場に活気を呼び戻したいと考えていた幸之助は、奉公時代、近所の店に初荷の手伝いに行っていたことを思い出した。そして「こんなときこそ景気づけに初荷でもやったらどうだろうか」と考えた。1930(昭和5)年1月、名古屋支店で初めて実施した初荷が非常に喜ばれたことから、翌1931(昭和6)年からは全社的行事としてこれを実施した。
幸之助のことば
――1つの集団、会社などが、好ましい姿で力強く活動を進めていくために大切なことの一つは、やはり団結というか、みんなのまとまりということではないだろうか。和親一致というか、互いに心をつなぎ、力を寄せあって、共通の使命、一つの目標に取り組んでいく。そういうところに、生き生きとした活動の姿、好ましい成果というものももたらされてくるのではないかと思われる。それでは、そういうみんなのまとまり、団結心というものは、具体的にはどうすれば生まれ、高まってくるのだろうか。これは、いろいろなことが考えられると思う。みんなで一つの大事な役割、使命を遂行していくのだという使命感を高めることが、そういう姿に結びつく場合もあろう。またもっと卑近な例としては、何か一つの行事をみんなで遂行していくということも、そういったことに結びついていくのではないかと思う。
<『人を活かす経営』より>
混沌とする戦中の軍需生産、混乱する戦後に強いられた制限の中、幸之助は従業員(組合員)と、持ちつ持たれつ、この苦難を乗り切りました。
混沌とした時代にも明るい職場づくり
戦中の職場醸成の取り組み
混沌とした暗い情勢の中、幸之助が取り組んだのは“明るい職場づくり”でした。従業員の一体感醸成、士気の高揚を図るため、様々な行事が実施されました。一層高められた結束力は、戦後、幸之助と松下電器に訪れる苦難の時代を乗り切る基盤になりました。
1.“十日戎”に経営方針発表会を実施
1940(昭和15)年、初めて経営方針発表会を実施した。以来、恒例行事となり、戎祭(えびすまつり)の吉例にちなんで毎年1月10日に開催され、その年の具体的な経営方針を明示した。会社の現状を説明し、従業員に望むことを懇々と説く幸之助の姿は、巨大な企業グループとなった松下グループの求心力そのものであった。
2.歩一会運動を盛大に開催
1920(大正9)年の歩一会結成以来、年中行事として春秋の、景勝地や遊覧地への行楽が行われてきたが、1931(昭和6)年、天王寺公園グランドで運動会を開催した。1940(昭和15)年と1941(昭和16)年には、会場を甲子園球場に移して大規模に開催された。参加会員8,000余名、スタンドには招待の来賓と従業員の家族約5万人が集まり、甲子園球場は満員であった。運動会は、和親一致の精神を内外に示す場であり、整然として統率のとれた競技ぶりで結束力を示し来賓を感嘆させた。
3.戦時下の大演芸大会
戦時下の厳しい要求によって生産増強に励む一方、従業員の和親一致と士気の高揚をはかるために、1944(昭和19)年9月、社内演芸大会を大阪北野劇場で8日間にわたって開催した。戦争末期の殺伐とした空気の中で、なんの娯楽もなく日々の生産に励む従業員に明るいなごやかさを与えたのである。
戦後の苦難に際しての幸之助と組合員との絆
GHQ統治による制限と資金難の中で
1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争が終わった。今後日本がどうなるか分からないが、一日でも従業員を不安な状態に置くわけにはいかない。終戦翌日、幸之助は在阪事業場の幹部を緊急招集し、今後の当社の行き方について説いた。さらに、1946(昭和21)年には、GHQの方針により制限会社の指定を受けたことで、全ての会社の資金は凍結。事業活動が大幅に制限される中、幸之助は、「制限会社指定に際して」と題した社内新聞で従業員を叱咤激励した。
1948(昭和23)年に入り、GHQの財閥解体は緩和される見通しが強まるが、一方で政府の金融引き締めにより、深刻な資金難に見舞われた。同年10月から給与も分割払いを余儀なくされた際、幸之助は「我社の興亡をかけて従業員諸君に切望す」と題した要望書を発表し、従業員への現状の理解を切に求めた。
幸之助のことば
――「“禍”を転じて“福”となす松下電器伝統の真価を発揮しなければならない。われわれ産業人の使命は、いつ如何なる場合にも厳と存することを把持し、立派な会社にしようという希望と信念を持ってより一層職場に奮励願いたい。
<社内新聞『制限会社指定に際して』より>
――「賞与でも越年資金でも、できるものなら充分に出したい。けれどもそれは結果において従業員の安定を傷つけず、皆の幸福にならなければならない。経営を堅実化し将来の飛躍に備えるならば、前途は極めて明るい」
<『我社の興亡をかけて従業員諸君に切望す』発表に際して>
労組結成大会に登壇した幸之助
1945(昭和20)年10月、経済民主化政策の一環として労働組合の結成が推奨され、労働組合法が公布された。これを受けて、松下電器でも昭和21年1月、1万5,000名、42支部からなる労働組合が結成され、大阪中之島の中央公会堂で結成大会が開かれた。その結成大会に、幸之助は、招かれないままに出席し、祝詞を述べた。「組合の結成によって、わが社の民主経営に拍車がかけられると思う。これを期して、全員一致して、真理に立脚した経営を行なっていきたい。正しい経営と正しい組合とは必ず一致すると信ずる」。思いのこもったその訴えに、会場から大きな拍手が起こった。
組合結成を指導していた労働運動の幹部が幸之助を訪ね――「会社の経営者、あるいは社長が出席して、組合結成に賛意を表する祝詞を述べるということはほとんどない。われわれとしては非常に感銘を深くした」と語ったという。
破壊的な行動に出る組合も少なくなかったが、松下電器の労使は互いに理解と協調の精神を失うことなく、終戦直後の社会的、経済的な混乱の時代にあって、労働条件を向上させながら、同時に松下電器発展の基礎を固めることに協力しあったのである。
社主の公職追放除外運動起こる
1946(昭和21)年、幸之助の公職追放の適用が避けられなくなった。その時、労働組合から「社主の追放除外運動をやろう」という声が挙がり始める。組合員に署名を呼びかけると9割以上の署名が集まった。
労働組合が戦時中の経営者を追放する運動を起こすケースが頻発するなかで、こうした活動は極めて異例であった。追放委員会のひとりで、時の商工大臣・星島二郎(ほししまにろう)は、松下労組の訪問に対し、「君とこの組合はよその組合とは違うナ」と感激したという。同時に、星島氏は「これからの日本の復興は、労使が一体とならなければできない。私もできるだけのことはするから、君たちも力一杯がんばってほしい」と組合幹部を激励している。
この運動は、めでたく成果を収め、社主はもちろん全重役幹部が追放から除外された。そして、一部幹部だけでなく、全組合の9割が理解し、支持したところに大きな意義があり、組合員と幸之助との絆を示す1つの証拠といえる。
主要製品の普及一巡と景気後退により、家電業界は危機的状況に陥っていた。
幸之助は、販売会社・代理店との「共存共栄」の精神を再確認し、流通改革を断行。さらなる発展を遂げるのであった。
家電業界の混乱
松下電器の状況
家電主要製品の普及一巡により、1963(昭和38)年頃より販売は停滞。各メーカーは激しい販売競争を繰り広げるが、減産には至らず、販売会社・代理店への無理な“押し込み販売”が行われていた。取引の多い代理店に対し、取引内容の調査を実施すると、膨大な債務残高、支払いサイトの長期化、商品の横流しなどが判明。当時の販売会社・代理店170社のうち、収益を上げていたのはわずか20数社に過ぎなかった。
EPISODE
破壊寸前の業界
――メーカー・卸・小売り店各々が文字通り鎬(しのぎ)を削り、果ては過当競争も極限に達して、まさに業界は破滅寸前にあったような感じでした。消費者対業者、業者対業者は相互不信と疑惑・憎悪・無責任の中での商売、利益なき営業の明け暮れでありました。価格競争、泥合戦といったような事が、この前後、最も悪化して、業界正常化の声がしきりと立ちましたが、打つ手もなく、不安の中に毎日を過ごしたのが、この当時の状況ではなかったかと思われます。
<日田ナショナル製販社長・豊田菊次氏『松友ジャーナル』1976年6月より>
利益ゼロでも売る
――販売会社も取引店も在庫過剰、値引き販売、資金繰りの悪化等により、倒産店・不良債権店・手形期日の引延しなどが続出して、多数が赤字経営という現状でした。需要家の方も、当時の不況下に支払観念がうすく、貸倒れ額も相当額計上されました。
<都城ナショナル製販社長・山田芳郎氏『松友ジャーナル』1976年6月より>
熱海会談にかけた幸之助の思いと、
販売会社・代理店との絆
「これはいかん。進んで話を聞かなあかん。」
販売会社・代理店の危機的状況をいち早く察知したのは幸之助であった。そして、販売会社・代理店の状況を聞くと共に慰労を兼ね、熱海市のホテルに招くことを提案。これが1964(昭和39)年7月9~11日までの3日間、熱海市のニューフジヤホテルで行われた「全国販売会社・代理店社長懇談会」、いわゆる「熱海会談」である。
開催場所を熱海にした理由は、本社で行えば、参加する販売会社・代理店は「呼びだされた」という印象を受けてしまう。そのため、慰労を兼ねた熱海での懇談会となった。また、懇談会の招集にあたり、参加される販売会社・代理店のことを徹底的に考えた。その証拠に、案内状の文面の書き直しは3回にも及んだ。また、懇談会初日には夕食会が催されたが、お開きになり夜11時を過ぎた頃、幸之助は懇談会の会場に向かった。演壇から全員の顔が見えるように机を外して椅子を互い違いに並べるように命じ、全員の席からも幸之助の顔が見えるようにと演壇の高さを調節した。その他、マイクの高さや照明についても細かく指示を出した。座席表も作り直しとなり、準備が完了したのは朝5時頃のことだった。これは、出席者一人ひとりと向き合いたいという、幸之助の思いの表れであった。
「共存共栄」の精神を再確認
懇談会には、全国170社の販売会社・代理店の社長をはじめ総勢約300人が参加した。過当競争に伴う流通の混乱や経営悪化の実態、その原因や問題点、当社の製品・販売方策・従業員の姿勢についての苦情・要望が赤裸々に述べられ、激論が繰り広げられる場面も見られた。幸之助は、ひとり壇上に立って出席者の一人ひとりと向き合った。販売会社や代理店の経営が悪化した根本原因は、自主自立の精神の不足にあるとする幸之助に対して、販売会社・代理店側は松下電器の方針施策に非があるとして、追及する姿勢を崩さず、平行線であった。3日に渡る懇談会で、幸之助は総括に及び、自責の念を吐露。商品、取引、その他一切の点に根本的な改善を施す決意を表明し、懇談会を締めくくった。そして、出席者一人ひとりに自筆の「共存共栄」の書を手渡した。
幸之助のことば
松下が悪かった
――よくよく反省してみると、結局は、松下電器が悪かった、この一語につきます。(中略)昔、松下電器が初めて電球をつくった時、売れない電球でも松下がそんなに力をいれるなら売ってあげようと、みなさんが大いに売ってくださった。松下の電球はそれで一足飛びに横綱になり、会社も盛大になった。こんにち、松下があるのは本当にみなさんのおかげだと思う。それを考えると、私のほうはひと言も文句を言える義理ではない。これからは心を入れ替えて、どうしたらみなさんに安定した経営をしてもらえるか、それを抜本的に考えてみましょう。それをお約束します」
――そういっているうちに、万感胸に迫るものがあって、ぼくは思わず目頭を熱くした。(中略)人間の性は、やはり善ですよ。相手の立場に立って素直に話し合えば、必ず有無相通ずるものがある。それが人間の心なんだ、ということをつくづく感じましたな。
<『《求》松下幸之助経営回想録』より>
EPISODE
共存共栄の神髄
――熱海会談の最後に松下さんは「松下電器が悪かった」とおっしゃって、涙を流されたわけですね。その時の松下さんの心情というのは、あの雰囲気のなかで感じてこそはじめて、その神髄というものが、わかるのではないでしょうか。(中略)まっすぐに立って、はらはらと涙を流された。それは感動的なものでした。こっちもやはり様々な感慨に襲われましたね。私が思いますに、松下さんは色々複雑なお気持ちであったでしょう。こんなに松下電器が心をくだいてやってきたのに、こんな状態になって残念だとか、「悔しいな」というお気持ちはあったと思います。しかし、それ以上に、熱心に市場のこと、業界のことを考え、お客さんのことを考えて出てきた涙でしょう。(中略)松下さんとああいう形で関係を持てたということは、私にとって本当に幸せだった。そういう思いでいっぱいです。
<山形ナショナル電気株式会社 清野源太郎氏「松下幸之助研究」1999年春号より>
共に歩むことを誓う
――会長は涙を流し、声をつまらせ、皆さまに大変迷惑をかけていることは誠に申し訳ない、それは松下電器の責任であるとの趣旨の話をされました。私ども出席者一同は、その心情、温情に打たれ行を共にする人はこの人以外にない、一生、松下電器と共に仕事をしようと涙と共に誓ったものです。
<浜松ナショナル製販社長 加茂雅章氏、松友ジャーナル、1976年7月>
「共存共栄」の額を掲げる
熱海会談の後、幸之助は、各事業場に掲げていた自身の写真を外した。組織が大きくなる中で、従業員と共に働くということを忘れてはならないという幸之助自身の心がまえから、掲げていた写真である。幸之助は、熱海会談の翌年1965(昭和40)年の経営方針発表会で次のように語っている。
幸之助のことば
――共存共栄の精神というものを、みんなの胸に叩き込んで、常に仕入れ先を尊び、ご販売店を尊び、そして、相連係したかたちにおいて仕事をしていくことを、骨の髄まで知ってもらいたい、そういうところに安定した発展が約束されるのだ、そういうことを具体的に行うことができずに、いかに美辞麗句を並べてもダメだ、と考えて、共存共栄の実があがるまで、われわれ2人(幸之助と当時社長であった松下正治)の写真を下ろしてもらったのであります。松下電器は、ほんとうにこれから社会とともに、販売会社さん、代理店さんとともに存在する。ご販売店とともに存在する。需要者とともに存在する。お仕入先とともに存在し、全部共存共栄の実をあげるまで、基本的な働きをすることを中心として活動を再開する年だと、かように考えたいと思います。
<1965(昭和40)年1月10日 松下電器経営方針発表会での話より>
独立をするも、すぐに苦境に陥った幸之助を支えた夫婦の「絆」を辿ります。
独立した頃
1917(大正6)年、幸之助は勤めていた大阪電燈を辞めて、改良ソケット製造の準備を始めた。
いくら売りに行っても誰も買ってはくれず、生活に窮した。妻・むめのは、自らの反物や指輪を質に入れてやり繰りをし、幸之助を支えました。当時のことを、むめのは以下のように回想している。
――「よく皆さん『ご苦労なさったでしょう』と言ってくださるのですが、私自身は少しも苦労だと思いませんでした。(略)常それにどれだけ働いても、難儀するのはまだ自分の働きが足りないからだと思っていた節もありました。また主人は他人よりよく働きましたし、働けば何とかやっていけるという自信を持っていましたから、不安はあまり感じませんでした」
EPISODE
家賃を遅らせる
――私はのんきなところがあるせいか、お金のことで特別苦労した思い出というものは少ないのですが、ただ一つだけ困った記憶があります。それは主人が会社を辞めた当時のことです。(略)商売を始めたばかりで、材料を買い込んだため、お金が無かったのだろうと思います。家賃が払えない事がありました。その当時25日になると大家さんのところへ家賃を持って行きました。「お金が今無いので、今月の家賃はあと5日ぐらい待ってください」と言いますと大家さんは「若いのにあんたのところは感心だ。(略)心配せんでもいい。お金が入った時に払ってくれたらよろしいから」と言って励ましてくれました。その時は私、ほんとうにありがたいことと思いました。雨露をしのがせていただけるのも、大家さんのおかげやという気分がありましたから。このことはおそらく主人は知らないと思います。こんな話をしたことはありませんから。
風呂代がなかった
――当時はお風呂代がたしか2銭だったと思います。その2銭のお金が無かったのです。主人は1日中仕事場でそれこそ仕事に没頭しています。それでもう身体は汗だらけ。汚れてしまっているわけです。ですから、どうしてもお風呂に入らなくてはならない。そして主人は手拭をもって「これから風呂へ行くから、お金を…」と言うのです。そのとき私は「風呂代が無い」とは言えません。主人にそんなことで心配させるのは悪いと思って…何とその時言ったでしょうかね。ごちゃごちゃ、いろいろ言ったわけです。「さっき、この品物がどうも調子が悪い、一回あなたに見てほしい言われているんですが…」そんなようなことを言ったわけです。そうしたら「そうか」と言って、主人は手拭いを放り出して、その品物のあちこち触り出したのです。全く没頭し、お風呂へ行くのをすっかり忘れてしまったようでした。
<松下むめの『難儀もまた楽し』より>
もう一人の創業者(大開町の頃)
幸之助の娘婿であった松下正治(当社第2代社長)は、幸之助と妻・むめのの関係を、次のように回想している。
――本社を現在の門真に移すまで母(むめの)は病気がちであった父(幸之助)を助け、父とともに仕事を行なってきました。当時、住み込み店員制度というのがあり、父と母は店員と起居を共にしていましたが、母が店員たちの母親代わりを務め、三度の食事はもちろん、身の回り一切の世話をしていました。今、相撲部屋では、親方のおかみさんが、自分の子どもを育て、家事を切り盛りし、さらには多くの弟子たちの世話をするというように、母の場合も父が仕事に熱中できるためのあらゆる裏方を務めていたのです。その上に、実際の会社の経理業務などを担当していましたから、相撲まで取っていたというべきでしょう。また、父が失意のときにはその生来の明るさで勇気と意欲を父の心の中に奮い立たせることもしばしばであったようです。そうした意味で、母なくして、父はなかった、あるいは、今日の松下電器はなかったといっても過言ではないのではないでしょうか。
<松下むめの『難儀もまた楽し』序文より>