1941年(昭和16年)

戦時中も優良品生産に努力

資材不足の中で

1937年の蘆構橋事件を端緒とする日中戦争を契機に、日本は急速に戦時色を濃くしていった。翌年には国家総動員法が公布され、諸資材の配給統制と使用制限が始まった。こうしたなかで、社主は本来の民需生産に努力すると同時に、戦時下の企業の生きる道として軍需生産にも分に応じて協力する方針を固め、初めて兵器の部品を受注した。

しかしこの大きな変動期に当たり、事業本来のあり方を見失うことを恐れ、1939年に「経営といい商売といい、これ皆公事にして私事にあらず」に始まる「経営の心得、経済の心得、社員指導および各自の心得」を通達した。さらに翌年1月には、初めての「経営方針発表会」を開催し、「国策遂行も急務であるが、わが社伝統の平和産業も重大である」と訴えた。8月には「優良品製作総動員運動」を実施した。

1941年12月8日、太平洋戦争が勃発した。戦争の激化につれ、資材不足による製品の劣悪化が憂慮された。翌年、社主は「時局下の統制強化により、代用品の使用、仕様の変更等があっても、そのために製品自体を劣化させるようなことがあってはいけない」と「品質劣化に関する注意」を通達した。

すべての産業が軍需生産に動員されるなかで、木製の船と木製の飛行機の製造という分野外の事業に携わることになった。そのために1943年4月に「松下造船」、続いて同年10月には「松下飛行機」を設立した。いずれも独自の「流れ作業方式」を導入し、終戦までに船は56隻、飛行機は3機を完成させた。

国の要請とはいえ、分野外の事業に進出したことが、戦後、わが社が苦難の道を歩む原因となった。

[写真]

「松下造船」の作業風景