1956年(昭和31年)

「5ヵ年計画」を発表

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電気クラブで開催された昭和31年の経営方針発表会で5ヵ年計画を発表

「大衆との見えざる契約」を訴える

1954年の不況をその後の世界的好況と輸出の急増などによって克服した日本経済は、1955年に入って急速に回復していく。生活が向上するにつれて、豊かな文化生活を楽しみたいという人々の欲求は強まり、家庭電化製品に対する需要が増加してきた。

社長は日本経済が復興期から活動期に入ったことを察知し、1956年の経営方針発表会で「5ヵ年計画」を発表した。その内容は1955年の年商220億円を1960年には800億円に、従業員を11,000人から18,000人に、資本金を30億円から100億円にするというものだった。
出席者は全員その計画の壮大さに驚いた。また、当時の民間企業でこうした長期計画を発表する会社はなく、社外でも大きな反響を呼んだ。

しかし社長は「この計画は多少の波乱、多少の不景気があっても必ず実現できる。なぜなら、これは単にわれわれの名誉や利欲のために行うのではない。われわれは大衆と見えざる契約を結んでいるのであり、これは大衆の要望を数字に表したものである。だからわれわれの働きに怠りがなければ、必ず実現できると思う」と全員に奮起を促した。

この計画は4年目でほぼ達成する。

1954年末から日本経済は神武景気といわれる好況期を迎えた。ちなみに1956年版の「経済白書」は「もはや戦後でない」と宣言している。

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5ヵ年計画を発表する松下幸之助創業者(当時社長)

家庭電化時代が開幕

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1959年当時、人々のあこがれの的であった家庭電化製品

時代のニーズを先取りした商品づくり

神武景気の好況を一つの契機に、爆発的な家庭電化ブームが起こり、新しい電化製品が次々と登場してきた。1956年ごろには白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫は、「三種の神器」と呼ばれて人々のあこがれの的であった。

家庭電化時代の到来をいち早く予測したパナソニックは、ラジオ、蛍光灯に続く本格的な電化製品として、1951年、洗濯機の生産販売を開始。発売当初は価格も高く、台数も出なかったが、量産によって価格を下げ、1955年には月産5000台を越えた。
洗濯機の登場は、女性の家事労働からの解放、地位の向上を象徴するものとして、世の中に明るい話題を提供した。

テレビは、1953年のテレビ本放送開始に先立ち、前年に発売した。その強力な情報伝達力によって、テレビは国民の生活と文化に大きな影響を与えることになった。とくに1959年の皇太子殿下と美智子さまのご成婚はテレビブームに拍車をかけた。

1953年には冷蔵庫を発売した。これは前年に資本提携した中川電機(旧 松下冷機)が生産を担当した。当初は相当高価で、まだ一般家庭の需要に応じられるものでなかった。しかしその後、新工場の建設や市場の成熟があって、1960年には年産23万台を達成した。

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洗濯機の1号機 MW-101
46,000円(1951年)

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冷蔵庫の1号機 NR-351
129,000円(1953年)

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白黒テレビの1号機 17K-531
290,000円(1952年)

一方、営業体制については、1957年から販売会社制度を全国的に展開するのと相前後して、各地で「ナショナル店会」の結成を開始した。また「ナショナル・ショップ制度」も発足させた。需要家向け季刊誌「くらしの泉」の創刊、盲点地区対策、農村開発と団地対策、ショウルームの設置などを始めたのもこの時期である。

新鋭工場を次々と建設

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当時としては最新鋭の洗濯機工場

限りなく優良品を世の中に

1956年に事業分野の拡大に伴い、11事業部を15事業部に細分化。新鋭工場を次々と建設、本格的な量産を始めた。

なかでも松下電子工業の高槻工場は、エレクトロニクス時代の象徴として各方面の注目を集め、1956年に天皇、皇后両陛下をお迎えする光栄に浴し、1958年には品質管理の最高の栄誉といわれる「デミング賞」を受賞した。

テレビは当初、門真工場で量産を始めたが、1958年7月に茨木市に新工場が完成。おりからのテレビブームの波に乗り、前年の月産1万台から急増して、その年の年末には早くも月産3万台を突破した。

トランジスタラジオを中心に拡大を続けてきたラジオ事業部から、1959年5月、部品事業部が独立してその後の業容拡大に備えた。

社長は1959年1月、「どの工場も世界的水準の工場にする」と発表。新鋭工場の建設を積極的に推進した。ラジオ、部品、乾電池、蓄電池、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、電機、配電器、松下通信工業などの工場が次々と新設された。

ただ「工場の建設や設備の拡張は必ずしも製品コストの切り下げにつながらない」との考えから、新工場を事業部の独立採算制のもとにおいた。これにより、過度の膨脹を規制しながら、一方で一つの製品分野に限られた人間の創意と能力を集中することができた。そして新しい設備をフルに生かし、事業を飛躍的に伸ばしていった。

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1956年、昭和天皇、皇后両陛下が電子工業に

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当時としては最新鋭のテレビ工場