若さに贈る~松下幸之助からのメッセージ~ 若さに贈る~松下幸之助からのメッセージ~

―青春とは心の若さである―
松下幸之助の著書『若さに贈る』は、この「青春」の詩から始まります。幸之助は、その生涯を通して、若き人材の育成に情熱を注ぎました。店員養成所を開設したのも、85歳を間近にして私財を投じ松下政経塾を開塾したのも、その表れといえます。

1965(昭和40)年、本社を置く門真市の成人式に出席した幸之助は、新成人を前にして「もしできることならば、わたしは、自分のいっさいを投げ捨てても、みなさんの年齢にかえりたい」と述べています。若者の育成とともに、彼自身が、常に「若さ」というものを、欲していたともいえるでしょう。

船場での丁稚奉公を経験し、電燈会社から独立し窮地に陥るも、熱意をもって打ち込み、そして道が開けました。弱冠23歳での創業でした。自らが若き実業家であった幸之助は、自身の「行き方 考え方」から、次世代を担う若者に、何を語り、何を望んでいたのでしょうか。

ここでは、若き松下幸之助自身の「行き方 考え方」を辿るとともに、折々において、新入社員や若き実業家たちに向けた幸之助からのメッセージを紹介します。

※ このコンテンツは、2021年2月6日から4月24日まで開催されたパナソニックミュージアム「松下幸之助歴史館」の企画展「若さに贈る―松下幸之助のメッセージ—」を Web 用に再編集したものです。

青春

もくじ

1 若き幸之助の「行き方考え方」 1 若き幸之助の「行き方考え方」

松下幸之助は、1918(大正7)年に松下電気器具製作所を創業します。その時23歳。
創業までの道のり、創業後の黎明期には様々な事象と対峙し、
折々の苦境を乗り越え成長していきました。
若き幸之助の「行き方考え方」を振返ります。

※松下幸之助には『私の行き方 考え方』と題する自叙伝があります。

15歳

6月 電気の世界にあこがれ、奉公していた五代自転車商会を飛び出す。
大阪電燈への就職を希望するも、欠員待ちとなり、桜セメントで働き始める。

1910(明治43)年

九死に一生。“自分は運がいい”

この桜セメント時代、九死に一生を得る体験をしている。それは、現場の出島から帰る船に乗っていた時である。足を滑らせた船員が、あろうことか幸之助に抱き着く格好になり、そのまま海へ落ちてしまった。気づくと船はもう遠くへ行ってしまっている。幸いにも季節は夏。そしてすぐに救助され事なきを得たが、その時に幸之助は、自身に起こった不幸を憂うことなく、「自分は運がいい」と運の良さを自覚したという。

12月 大阪電燈に見習い工として入社。わずか3ヵ月で、一人前の配線工事の担当者に昇進する。

大阪電燈時代、21歳の幸之助。

困難の後には

ある夏のこと、大阪・下寺町の古い寺に電灯を取り付ける工事に向かった。工事のために本堂の屋根裏に上がると、真っ暗で、むっとする熱気。築200年も経っていた本堂の屋根裏には、3センチもの埃が溜まり、歩くたびにボッボッと音を立てて舞い上がった。まさに地獄のような現場である。しかし、幸之助は工事に夢中になり、埃も、汗も、息苦しさも忘れているうちに仕事をすませた。
すると、1時間ほどして地上に降りた時、なんともいえない爽やかさを味わった。さっきまで暑いと思っていた地上が天国のように涼しいと感じる。なにか困難な、苦しいようなことがあっても、人は仕事に集中すればそれを忘れることができる。そして、それを終えた後には非常な嬉しさがくるということを学んだと、幸之助は著書の中で語っている。

※著書『若さに贈る』をはじめ複数の著書で語っている。

22歳

6月 大阪電燈を退社。独立する。

1917(大正6)年

自分の手でソケットをつくりたい ―わずか100円の資金で独立―

若くして管理職となった幸之助は、すぐに仕事が物足りなくなり始めた。また、病弱で会社を休むこともあった自分に、当時日給制だったいわゆるサラリーマンの仕事は不向きであると考えた。そして何より、自らの考案により実用新案も取得し商品化を進言した改良ソケットを「こんなものは使いものにならない」と上司に酷評されたことから、独立を決意。不安の残る決断であったが「もしだめだったら、その時はこの会社へ帰って、生涯忠実な従業員として働こう」と考え、勇気も一層強くなった。退職金や貯蓄を合わせた100円(※)足らずの資金と、妻むめの、義弟の井植歳男、一緒に大阪電燈を辞めてついてきた友人2名の合計5人で、ソケット製造の準備に取り掛かった。しかし、肝心なソケットの製造については五里霧中。試行錯誤の末、待望のソケットが出来たのは独立後4カ月が経った頃であった。

※ 当時の小学校教員の初任給:40~55円程度

創業間もない頃の家族写真
後列左から、幸之助、井植歳男、妻・むめの
二股ソケット(2灯用クラスター)

12月 川北電気から扇風機碍盤(がいばん)製造の注文が入り窮地を脱す。

碍盤
(左は当時の陶器製、右が練物)

成功するまで続ける ―独立時の苦難を乗り切る―

ソケットは作り上げたものの、販売ルートも無ければ値段の付け方も分からない。
10日間ほど大阪中の電器店や問屋を回って売れたのは100個ほど。わずか10円たらずの売り上げを得ただけであった。「今まで見たことない。故障したら誰がなおすのか」「あんたの会社は聞いたことがない」これらが売れない理由であった。完全な失敗である。改良に取り組もうにも資金は底を尽き、明日の生計もままならない。一緒に会社を辞めついてきた友人2人も自活の道を求め去っていった。
しかし、幸之助は諦めなかった。年の瀬も迫り、いよいよ窮地に陥っていたころ、思いがけず扇風機の碍盤の仕事が舞い込み、初めて160円の売り上げが出た。かけずり廻った大阪のある問屋からの紹介であった。ソケットは売れなかったが、意外な方向から運が開けたのである。この体験を次のように回想している。
「辛抱しているうちにたとえそのことが成り立たなくとも、周囲の情勢が変わってきて、そこに通ずる道ができるとか、またその辛抱している姿に外部からの共鳴、援助があるとかして、最初の計画とは大いに相違しても成功の道に進み得られるものであると思う」

23歳

3月 創業をはたす。

1918(大正7)年
創業の家
28歳
1923(大正12)年

3月 砲弾型電池式ランプを発売。

砲弾型電池式ランプ

社運をかけた大きな決断 ―実物宣伝を決行―

配線器具の事業を軌道に乗せ、幸之助は自転車用電池式ランプの開発に着手した。自ら研究開発に没頭し、遂に30時間以上(通常の電池式ランプの10倍)点灯する画期的な新製品を産み出した。「これは成功だ。きっと売れる」と考えた幸之助であったが、そう簡単にはいかなかった。当時は、一般的に壊れやすく経済的でなかった電池式ランプは、問屋には歓迎されず、どんなに熱心に説明しても取り合ってくれない。片っ端から問屋を回るが、瞬く間に在庫は膨れ上がり、窮地に追い込まれた。
幸之助は絶望することなく、問屋が取り合わないのは製品の真価を理解してもらえていないからだと考えた。そこで、ユーザーに近い小売店を直接訪れ、商品のランプを無償で置いて回り、店先で点灯実験をお願いした。結果が良ければ買ってもらおうというのである。資金乏しい当時の松下電器にとっては危険な“賭け”であったが、この作戦が功を奏した。商品の真価がわかると小売店からの注文は日を追うごとに増え、問屋でも扱わざるを得なくなった。今でいう、一種のマーケティング戦略といえよう。

32歳
1927(昭和2)年

4月 ナショナルランプを発売。

ナショナルランプ

ナショナルブランドの誕生 ―初の新聞広告―

砲弾型電池式ランプの発売から4年、時代は昭和に入り、さらにコンパクトな手提げランプが登場する。「このランプを国民の必需品にしよう」と考えた幸之助は、“国民の”という意味をもつ英語を用い「ナショナルランプ」と名付けた。これはドイツの「フォルクスワーゲン(国民車)」と同じような考え方であったといえよう。また、このナショナルランプで初めて本格的な新聞広告を打った。そのコピー「買って安心、使って徳用、ナショナルランプ」は、幸之助が自ら考案した。以降、幸之助は広告宣伝を非常に重視するようになる。「良い商品をつくり、その良さをお客様に早く知らせるのがメーカーの責務である」と考えたからである。

ナショナルランプの三行広告

ものづくりへの思い 発明家・松下幸之助 ―人々に喜ばれる商品をつくりたい―

幸之助は、生涯で8件の特許と92件の実用新案を取得している。創業期においては、幸之助は起業家であるとともに発明家でもあった。1916(大正5)年、大阪電燈時代に改良ソケットを実用新案として初めて出願、1926(大正15)年には、電圧調整器を特許として初めて出願している。
幸之助の発明考案に対する熱意は、寝食を忘れるほどのものであり、枕元にはいつもメモが置かれていたという。業容が拡大した後も、社主業のかたわら、少しでも時間ができると、机の上に置いてある製品を手に取って略図を描き、改良を加えていた。

ソケットの実用新案

2 新入社員へのメッセージ 2 新入社員へのメッセージ

幸之助は、入社式や導入研修において、新入社員に対して言葉を述べています。
どのような言葉で、何を求めたのか。
当時の事業背景や社会背景も交えて、振り返ります。

皆さんは社員という稼業の社長である

幸之助のことば

ひとつの仕事をもって世に立つ、社員なら社員としての職をもって世に立つということは、本質的には独立していることである。皆さんは何々の社員という会社の社長である、その社員という稼業の社長が諸君である。そういうような、襟度(きんど※)に立って物事を見れば非常に愉快であります。
わが社の社員は、みんな独立せる1つの職業を持っている。何々の社員として何々の仕事を担当しているのである。それはその人の独立した1つの職業である。その職業に関する限りはその人は社長である。独立自営の職業である。こういう襟度をもって仕事にいそしむべきであると私は考えております。

<1962(昭和37)年4月 新入社員導入教育より(67歳)>
※襟度(きんど)…心のひろさ。人を受け入れる度量。

心を磨き成長させる

幸之助のことば

ものごとは、心の働きというものによっていかようにも考えられる。もう辛抱できない、あした命を捨ててしまおうというような場面から一転して、天下をのむがごとき心に転換することもできる。
だから、皆さんはこれからいろいろな仕事にあたって、まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させないといかんと思う。小さくこれだけしか見えない人もあれば広く見える人もある。180度見える人もある。360度、前にいて後の様子が分かるという心の働きもできる。そういう心の働きに皆さんが今まで得られた知識を加えてやられたら、必ず大きな成果を生む。その成果はわが社の発展とも結びつき、社会、国家の発展ともなり、また皆さんの名誉となり、皆さんの向上なり繁栄にもなる。

<1961(昭和36)年4月 新入社員導入教育より(66歳)>

当時の松下電器

この頃の松下電器は、「松下電器五カ年計画」(1956-1960)の達成を経て、海外展開を含めさらなる業容拡大に向かっていました。それに伴い社員が急増する中で、幸之助は、社員一人ひとりが、会社を通じて社会に奉仕するという独立稼業の主人公になるのだと説き、いわゆるサラリーマン気質になることを戒めました。また、1962年5月からは、新入社員が“商人”を商いの現場を体験するショップ店実習がスタートしています。

当時の世の中

世界の緊張と日本“無責任”時代

前年1961(昭和36)年にジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任し、かの名演説を行います。
「Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country」
—国が何をするかではなく、あなたが国のために何ができるかを問いてほしい―
同年4月には、ソ連の宇宙船ヴォストークで、ガガーリン少佐が地球を回りました。ドイツでは、ベルリンの壁がつくられ、米ソ冷戦は深刻化します。世界の緊張が高まる一方、日本は高度経済成長でますます生活が豊かになっていました。そうした中で「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」というような風潮が生じるようにもなります。
このような情勢も、当時の新入社員への言葉に繋がっていたのではないでしょうか。

わが社は青年の力を正しく生かす

幸之助のことば

わが社の大いなる特徴は、青年の力を正しく100%使っていることである。わが社が若い人々により、思う存分仕事がなされていることは、他の会社に見られぬところである。いかなる大事業でも、その建設は青年の力によってのみ完成されるものと信じている。年の寄った人はなるほど仕事は完全にやるかもしれぬが、とかく慎重すぎてスローなものである。これに反し青年は仕事が速い、熱がある。近頃は一般に、ものを見るのに批判的に見る傾向が強くなってきたようだが、何事もある程度まで批判したら、最後はひとつ信じきることでなければならぬ。信じきった感激!それが大きな力を生み出すのである。

<1936(昭和11)年5月 新入店員対象社主主催座談会より(41歳)>

当時の松下電器

前年の株式会社化を経て、戦前の発展のピークにあった松下電器。事業は著しい成長を見せ、ナショナルブランドを世界に広めるべく、視点は海外にも向いていました。同月には、中尾哲二郎をはじめ3人の幹部を欧米視察に派遣。帰国後、中尾は社内新聞に「確固たる信念の下に力闘しつつある松下マンの態度、各分社の急激なる発展ぶりの如きは、世界のいずれの国にもその比を見ない事を再認識した」と語っています。命知を経た会社発展のベースには、この青年の力が不可欠だったのでしょう。

当時の世の中

長引く不況の中で

同年3月、近代日本史最大のクーデター、二・二六事件が起こります。この背景には、世界恐慌を発端とする深刻な不景気と、不適切な対応をとった政党に対する青年将校の失望がありました。そんな中、松下電器は、使命に立脚し、事業をとおして苦境を乗り越え発展してきました。“青年の力を正しく生かす”という言葉が、それを物語っています。

儲けることの困難さを知る

幸之助のことば

皆さんは今日まで販売店でありますとかそういうところで、しばしのあいだ、実際の体験をされたと思うのでありますが、今日販売店の方々が、直接需要家に接して物を売っておられる、集金をされる、そこにいくばくかの利益を上げておられる。そのことがいかにむずかしいものであるかということを、皆さんは体験されたと思います。今まで皆さんは、お金を儲けるということをあまりやっておらなかったと思うんですね。(中略)
しかし、会社に入って販売店に預けられて、販売店のご店主なり、そこの奥さんなり、また店員さんが物を売って、そこに利益をあげていかれる、その実際の状態がいかに真剣なものであるか、(中略)利益を得るということがいかに難しいことであるかということを、皆さんは初めて認識されたと思うのであります。
それを忘れず、今後いかなる部署でいかなる働きをするにしましても、そういうことが始終頭の中を往来していなくてはならない。いわゆる経済観念というようなものも、そういうところにほんとうに生まれてくる
と思うのです。

<1968(昭和43)年10月 新入社員への講話会(73歳)>

競争の中にも素直な心

幸之助のことば

競争があることによって、人々は勉強し、進歩を目指して向上発展するのでありますから、これはこれで私は立派なもんやと思うのであります。しかし、その競争をするにあたって、素直な心がないと、ものの実相をつかめないからスカタンをする。誤った考えを盛り上げることになります。そこに過ちがありまして、競争に負けると言うことになります。(中略)
松下電器は、今までは概して競争に負けなかった。勝つことのみを願ったわけではございませんが、何が正しいかということを素直に判断して、そして進むべき道を求めて力強く歩んでいく、それは競争の姿にもなりますが、常に好ましい状態に展開していくということであります。競争に打ち勝っていくということになろうと思うのです。これが一(いつ)にかかって、素直に社会を見、そして素直に会社自身を見、そして素直に事物を見ていくところに生まれた成果であると、私は思うのであります。

※スカタン…失敗、見当違い
<1968(昭和43)年10月 新入社員への講話会(73歳)>

当時の松下電器

1968(昭和43)年、松下電器は創業50周年を迎えました。この年の3月7日に開館したのが、松下電器歴史館(現・松下幸之助歴史館)でした。またこの年、来る1970(昭和45)年に開催される日本万国博覧会に向け、松下館とタイム・カプセルEXPO70の出展を決定。50周年記念事業として総額50億に上る「児童の交通等災害防止対策資金」の寄贈、過疎地における工場の建設など、社会貢献事業も本格化させていきました。

当時の世の中

社会問題の表面化と団塊世代

この頃に日本は、公害や環境の問題が表面化。交通事故による死者数は1万5千人(ピークは1970年の1万6765人)を越え、“交通戦争”と呼ばれました。また、大都市への人の集中と地方の過疎化が大きな社会問題になっていました。積極的な社会事業には、このような背景がありました。
この頃の新社会人とは、ベビーブームで生を受けたいわゆる“団塊世代”。活動的な学生による学生運動も活発になりました。大人数の同世代の中で、競争にさらされてきた一方、戦後の高度経済成長に乗り、何でも思ったようにできる豊かさしか知らない世代の新入社員に、働くことの難しさを再認識させるメッセージだったのではないでしょうか。

3 若者へのメッセージ 3 若者へのメッセージ

「わたしは、青年たちと話をするのが好きですねん・・・」
ある対談でこのように語った幸之助。
それは日本にとどまりません。
日本の若者、若手経営者、そして世界の若き社長たちへ語ったメッセージを紹介します。

ビジネスマンの責務は「愛されること」

幸之助のことば

── 今まで人生で非常に大きな成功を収めているにも関わらず、非常に謙虚な方だと受け止めたのですが、この謙虚さ、この腰の低さというのは、いかにして維持していらっしゃるのでしょうか?

僕は謙虚にしているとか、していないとかという事は意識していませんけれども、結局、何事によらず衆知に寄らないかんと思うんです。だから10人の人が居れば10人の人の知恵を借りる。100人の人が居れば100人の知恵を借りる。1億あれば1億の知恵を借りるという心構えでやっているんです。だからね、皆さん始め、この家屋、電灯、光、その全てがわが師である、こういう考えでやっているんです。だから、どこにでも私より偉い人ばかりいる。私がいちばんあかん、そういう考えでやっている。

── ビジネスマンの最も重要な責務は何でしょうか?

簡単に言うと、みんなに愛されることですね。ビジネスマンはみんなに愛されないといかんですよ。あの人がやってはるのやったらいいな、物を買うてあげよう、と、こうならないといかんですよ。そうやるには、奉仕の精神が一番大事です。奉仕の精神がなかったら、あそこで買うてあげようという気が起こらない。そうですから、ビジネスマンの一番大事な務めは愛されることである。愛されるような仕事をすることである。それができない人は、ビジネスマンに適さないです。必ず失敗するとこういうことです。

ビジネスマンの責務は“愛されること”そのためには“奉仕の精神”が必要と語っていますが、これは“お客様大事”という考え方に繋がります。幸之助少年が商いを学んだ、船場・五代自転車商会の主人・音吉氏は、お得意さまを非常に大切にし、商品の調子を聞いたり、困った時にはすぐ駆けつけたり、常に奉仕の精神に立って商売をしていました。また、幸之助自身で自転車を売った際、愛されることの大切さも経験しています。幼い頃に体得したことは、経営者である幸之助の礎になっていることが分かります。
この講演では、冒頭、参加した世界各国の若手社長へ、1972(昭和47)年に発表した著書『人間を考える』の冒頭に記した「新しい人間観の提唱」を読み聞かせました。同時通訳を介し、時折会場から笑いを取りながら話す幸之助の姿は、まさに“国際人”の顔を思わせます。

経営の基礎におくべきものは「熱意」

幸之助のことば

── 不安定時代の中の経営者、特に若い経営者の方々にひと言

今の時代は確かに大変だと思う。現実の問題として。が、それはその人1人だけのことじゃない。逆にいうと、だから自分1人だけうまいことしようとしても無理なんやから、ともにぬれるものならぬれていこうやないかという、覚悟をせねばならん。そうなると案外にずぶぬれにならずにいくもんです。方策も自然と浮かんでくるものだと思う。
ある1種の悟りですな。そういうものをやっぱり自分なりにもたないといかん、体得するようにしないといかん。その場合、とんでもなく天才的なひらめきや判断が必要ではないんです。常識的な判断があれば、十分なんだと、私は経験的にそう考えているわけです。理外の理ということがありますけれど、ほんとうは、道というものは案外平凡なところにあるものですよ。(中略)私は今や80歳代。しかし、私は私なりにこの暴風の中を精一杯歩いて行きます。逃げも隠れもしません。若い経営者諸君は、私よりはるかに元気なはずやし、一緒に手をとって進んでいこうじゃないか。ぬれるならぬれていこうじゃないか、そういう気持ちですな。

── 行き詰ったとき、そこから大きく転換するコツは?

そういう時が来たら、一切のしがらみから抜け出て、原点というか、真実の上に立って、もう一度眺めてみることですな。経営者というものは、常に真実というものの上に立たないといかん。話し方の上手下手は別として、真実を訴えないといかんと思うのですよ。その時その時のね。(中略)真実を語れば、昨日言ったこととまるっきり変わったことでも、それは説得力がありますよ。(中略)策を弄するようなことでは、真の経営者とはいえんというように感じますな。

── 経営者の基礎におくべきものは熱意である。それが突破口であり、経営の推進力になるか…

熱意があれば、先の読みというものもついてくるし、また周りの人がその熱意にほだされて、みな一所懸命やりますよ。なんぼ賢い人でも、経営に熱意をもっておらんと周りが動かん。なんとなくチグハグになる。人心の統御というものも、熱意があるかどうかです。それが大部分です。あの人はしっかりしている、学問があるからついていくというよりも、あの熱意には頭が下がる、わしもやってやろうと、こうなりますわな。

<『30億』1976(昭和51)年1月号~12月号連載より(81歳)>

1970年代は、日本の高度経済成長が終わりを告げます。1973(昭和48)年には第一次石油危機が発生。翌1974年、日本経済は戦後初のマイナス成長に陥りました。さらに、公害問題も深刻化していました。“覚悟をもって逃げも隠れもせず、ぬれるならぬれていこう”“一切のしがらみを抜けて、真実の上に立つ”当時80歳の幸之助が語ったこの言葉は、現在の厳況にも、道をひらくヒントを与えてくれるのではないでしょうか。

私心を消す

幸之助のことば

私は今まで人を使ってきて、いろんなことがありましたが、おおむねうまくいきました。けれども、時に失敗することがあります。“あのしっかりした男が“と、こうなるんですな。その同じしっかりしている人で成功する人と失敗する人は、結局どこが違うのかをさらに煎じ詰めていくと、失敗する方には“私“というものがあるのですな。一方、成功する人には“私“というものがありません。賢さは一緒である。しかしちょっと自分の私心が入ると、非常に差が出てきます。(中略)

私のような老人でも“私“と言う個人的欲望と言うものが出てくるんです。だから皆さんのようなお若い方は、元気溌剌としているから、私以上にいろいろな面において欲望が出てくるやろうと思うんです。実際はまた欲望が出ないとあかんと思います。けれどもその欲望は、“公“の欲望と私的欲望とかあります。(中略)

私自身がもう80になりまして、なおかつ個人松下と公人松下としての葛藤をやっているんです。こういう事は“公“の人間としてやってはいけないと、そう思っておっても、次の瞬間には自分の私的欲望が出てきます。そうですから、なかなか人間あかぬけすることはできませんな。これはいかんなと、自分を抑える。抑えてもまた出てくると、こういうことでね。なかなか難しいもんですわ。これは死ぬまで免れんと思いますけれども、何とか死ぬまでに抑えることができたらば、素晴らしい人間になれるだろうと、こう思っているんです。

<1976(昭和51)年 名古屋青年会議所にて(81歳)>

80を過ぎても自分を見つめ、戒め続けていた幸之助は、「私心」というものを恐れていました。“賢さ”は同じであるのに成功する人と失敗する人がある、この差は「私」というものの有無だというのです。これは、別の言葉で表すと、素直な心になるということです。幸之助が考える“素直な心”が体現する姿は、私心なく、物事をありのままに見、価値を正しく判断することです。幸之助自らも、素直な心を持ち続けるために、日々葛藤をしていたのでしょう。

幸之助は、高校生や新成人といった若者にもメッセージを贈っています
高校生諸君へ!

先輩、先生から教えを受けて

幸之助のことば

弘法大師さんという人はどんな人だったか、私はお目にかかった事はございませんけれども、話を聞きますと、非常にすぐれた坊さんであった。その弘法大師さんでも、青年時代はやはり自分で自分がわからんことが非常に多かったので、お師匠さんについて、自分を正し、そして行くべき道を歩んだということであります。
みずから何に自分が適するか、何をやるべきであるかということは、自分で考えます半面に、やはりその方向を、人々に教えてもらう、先輩に教えてもらう、先生方に教えてもらうというようにして、先生と自分と両々相まって、自分の行く道を誤りのないようにまとめていかなくてはならないかと私は思うのであります。私も商売をいたしまして、今日幸い皆さんのごひいきをこうむって、ともかくも商売を続けておりますが、毎日、迷うことがございます。(中略)そんな時はどうするかというと、私は人に尋ねるのであります。それがいちばん良いと思うのです。自分の信頼する人に尋ねます。

<1964(昭和39)年 群馬県立高崎高等学校 特別講演会にて(69歳)>

新成人に期待する

成功は一日一日の積み重ね

幸之助のことば

皆さんも今日、自分はいよいよ大人になったが、こういうようにやっていきたいと言うことを、1つ心に決してもらいたい。
“青年よ大志を抱け”という古い言葉があります。これは非常に大事なことです。(中略)しかし、ただこの“青年よ大志を抱け”という言葉だけに、浮かれてはならないという感じもいたします。(中略)実は私は、私の20歳の頃を顧みますと、ともかくも生活を安定させたいというような、ごく平凡な願いであったんです。(中略)しかし、約50年経って考えてみますと、大志を抱いて仕事をして成功したということは言えないけれども、その日その日というものを、真面目にやってきたということによって、大志をもって仕事に取り組んだのと、同じような成果を上げてきたのではないかという感じがします。(中略)大志を抱くがために、遠く遠方を見つめて、今日1日の足元を顧みないというような場合も、私は相当あるんじゃないかという感じがします。大志を抱いて成功しないと言う人もある。大志を抱かずして1日1日を積み重ねて、ついに大志を抱いたと同じような成果をあげるという人もある。私の場合は、どちらかというと、大志をもたずして、大志を抱いた人と同じような成果をあげたことになるんやないかという感じがいたします。

<1967(昭和42)年 門真市成人式にて(72歳)>

関連リンク

パナソニック ミュージアム