1894‐1918年(明治27-大正7年)

創業まで

松下幸之助が生まれた和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木。
中央の大きな松の木の下に松下家の先祖からの屋敷があった。

パナソニックの創業者・松下幸之助は、1894年(明治27年)11月27日、和歌山県海草郡和佐村(現、和歌山市禰宜)に、8人兄弟の3男、末子として生まれた。

幸之助が4歳のとき、父が米相場に手を出して失敗したため一家は困窮に陥った。小学校もあとわずかで卒業という9歳のとき、大阪の八幡筋にあった宮田火鉢店に丁稚奉公に出ることになった。その3ヵ月後、今度は船場の五代自転車店に奉公した。彼は利発で商売にも熱心だったので、主人にかわいがられた。
丁稚奉公の間、実業について多くのことを学んだ。店番をしながら講談本を読んだことも、後に役立った。

大阪ではすでに市電が走っていたが、彼はそれを見て電気の将来性を予感し、電気関連の仕事をしてみたいと思った。その思いが高まり、15歳のとき大阪電灯に転職。20歳のとき縁あって19歳の井植むめのと結婚した。

大阪電灯での活躍はめざましく、22歳で工事人のせん望の的であった検査員に昇進した。その当時、ソケットの改良に熱心に取り組み、試作品を作っていた。ある日、上司に見せたが使い物にならないと酷評された。

もともと体が弱く、以前から早く将来の方針を立てなければと考えていたこともあり、この出来事をきっかけに独立を決意し、1917年6月、東成郡(現、大阪市東成区)猪飼野の借家でソケットの製造販売を始めた。その時、むめのの弟・井植歳男(後に三洋電機を創業)を呼び寄せて手伝わせた。

しかし、苦心のソケットは売れず、むめのが質屋に通うほどの窮状に陥った。そんななかでも彼は前途に希望を抱き、考案に熱中していた。年の瀬も迫ったある日、扇風機の碍盤を練り物で作ってくれないかとの注文があり、その出来がよかったことから続いて注文が入るようになった。

辛抱の甲斐があって、意外な方向から運が開けた。そして彼は改めて配線器具の製作に本格的に取り組む決心をした。

可愛がっていただいた五代自転車店の五代ふじ夫人と(幸之助11才の頃)

和歌山県出身の友人達から贈られた「松下幸之助君生誕の地」の石碑。題字は同郷の湯川秀樹博士の筆による。