1934年(昭和9年)
店員養成所を開所
店員養成所の授業風景
ものをつくる前に人をつくる
所主は「事業は人である。ものをつくることも大切であるが、その前に人をつくることが肝要である」との信念に立ち、人材の育成にはとくに意を注いできた。
また「物の生産と教育が同時に行える工場学校」を建設したいという夢を持っていた。そこで、門真地区に進出した際、本店・工場とあわせて「店員養成所」を建設し、1934年4月に開所した。なお1936年には「工員養成所」もあわせて開所した。これらの養成所は、太平洋戦争中の学制改革のために閉鎖されたが、戦後、「松下電器工学院」として再発足した。
会社の発展に伴い、所主の「人を大切にしなければならない」との思いはますます強くなり、次々と独自の人事制度を生み出した。1933年に松心寮を建設し、従来の店内居住制度を寮制度に切り替えた。1937年には、見習店員が3年間の修業を終え一人前の店員になることを祝う「元服式」を始めた。
また、従業員との懇談を常に心がけ、1935年から「松下所主を囲む座談会」を始めた。これは現在の職場懇談会の端緒となった。
1936年には、従来の月2回休日制に替え、「週休制」を採用した。その際、所主は月4回の休日のうち、2回は休養、2回は修養に当てるように要望した。
従業員の健康管理にも強い関心を払い、1937年に「松下電器健康保険組合」を設立、その3年後には「松下病院」を建設した。
1938年には、高野山に物故従業員の慰霊塔を建立し、法要を営んだ。
店員養成所の生徒募集ポスター