1935年(昭和10年)

共存共栄の理念に基づいて

適正利益についての考え方

パナソニックは早くから、一般家庭が入手しやすい価格で品質の良い製品を普及させることに力を注いできた。価格については「不当に高い利益も、少なすぎる利益も、ともに商売の正道からはずれている」との観点から、取引先が適正利潤を確保できるように努力してきた。

しかし当時は、一部の有力メーカーの商品を除いて「定価」はついていず、販売店が自由に値段をつけて販売するという状況だった。そのため、販売店によっては不当に高く売ってお客の不信感を買ったり、逆に極端な値引きで採算を割ったりと、混乱を招いていた。これは卸業者と販売店の間でも似たものであった。

所主はこの状況を憂慮し、適正利潤に基づく価格で販売することは、メーカー、販売業者の経営安定のためだけでなく、需要者にとっても買いやすく、しかも安心して買えることになると確信した。そこで1935年7月から共存共栄の理念に基づいて正価販売運動を展開した。「正価」とは「適正価格」という意味で、一般の「定価」と区別するための当社独自の呼称である。

続いて同年11月に、共存共栄の理念を推し進めるために「連盟店制度」を実施した。

これと並行して、わが社は一層のコストダウンに努めるとともに、積極的な販売助成活動、宣伝活動を展開した。大阪・心斎橋筋に最初のショウルーム「ナショナル電気ハウス」を開設。ラジオの月賦販売についての研究を進め京都の一部地区で実施。修理サービスの万全を期してサービス・ステーションを各地に設置、などがその例である。

[写真]

当時の代理店の店頭風景

[写真]

1934年ころのナショナル宣伝隊

松下電器貿易を設立

[写真]

「松下電器貿易」設立当時のスタッフ

自前の貿易会社で理念のある輸出

わが社は、1931年にすでに英文の商品説明書を発行、翌年には貿易部を設置し、輸出事業に着手していた。

当時の電機業界の貿易は、主として総合商社または外人商社(商館)を通しての貿易、いわゆる商社貿易に依存していた。そうしたなかで、海外市場に対しても国内と同様に一貫した理念に基づいて積極的に輸出を推進するため、1935年8月に「松下電器貿易」を設立した。当時、業界で傘下に貿易会社をもつ企業は少なかったが、この積極的な取り組みにより販路は東南アジア全域に広がった。

これと並行して海外の販売拠点の建設も進めた。また1938年には同社に輸入部を設置、当社および電機業界で必要とする資材を主体に原材料の輸入を開始した。

[写真]

当時の英文カタログ

基本内規を制定

[写真]

基本内規の第15条

拡大による慢心を戒める

1935年当時、わが社の業容は従業員約3,500人、年間販売高約1,200万円に達し、製造品目も約600種と増え、販売網も海外まで伸ばし、電気器具の有力メーカーとして注目されるにようになっていた。

同年12月、所主は「会社は社会からの預かり物」との考え方に立って松下電器製作所を改組し、「松下電器産業株式会社」を設立した。同時にこれまでの事業部制を発展させた「分社制」を採用し、事業部門別に9社の子会社を設立、ほかに4友社をおいた。

新しく社主となった松下幸之助は改組の理由について、「今日のわが社は業容も相当大きくなり、人員も増加し、社会的な一大生産機関としての実体をなしている。従ってこれを拡充する責務が痛感される。同時に経営の実情を公開して世間に発表することが公明正大の精神に合致する」と述べ、全従業員に自覚を促した。

このとき社主は「基本内規」を制定した。これは、本社および分社が事業経営を進める上での基本原則を明確にしたものである。とくに、この基本内規の第15条に明示された「松下電器ガ将来如何ニ大ヲナストモ、常ニ一商人ナリトノ観念ヲ忘レズ、……」は、全従業員の心の戒めとして継承されてきた。

[写真]

基本内規の遵奉を誓った社員の署名捺印

[写真]

社員が署名捺印し、本社に提出された基本内規の冊子