1933年(昭和8年)
門真に本店・工場を建設
門真に建設された第三次本店と工場群
本格的な新鋭工場群の登場
1932年当時の従業員は1,200人余り、製造品目200余種の事業体に成長し、なお拡大の途上にあった。一部の工場を増設して増産に努めたが、注文に応じ切れなくなった。所主は将来の発展を考えて、本格的な本店・工場を大阪の東北郊外、門真地区に建設することにした。
当時は、昭和初期の恐慌の記憶がまだ生々しく残っており、7万平方メートルを超える敷地への大規模な工場建設は業界から驚きの目で見られ、放漫経営ではないかとする声も多かった。また門真地区は大阪から見て東北方向の「鬼門」に当たり、その点でも危惧の念を持たれた。
「鬼門」については所主も気になったが、「東北方向が鬼門なら日本の地形はどこも鬼門ばかりだ」と思い、建設に着手した。
そして1933年7月の移転に際して、所主は「組織の膨脹はやがて崩壊への道程であることが多い。今わが社は躍進か崩壊かの分岐点に立っている。本所将来の発展、衰亡は、かかって諸君の双肩にある」と奮起を促した。
事業部制を実施
自主責任経営と経営者の育成
1933年5月、所主は独自の発想による「事業部制」を実施した。工場群を、ラジオ部門を第1事業部、ランプ・乾電池部門を第2事業部、配線器具・合成樹脂・電熱部門を第3事業部とする3つの「事業部」に分け、製品分野別の自主責任経営体制をしいたのである。
これにより、各事業部はそれぞれの傘下に工場と出張所を持ち、製品の開発から生産、販売、収支に至るまで、一貫して責任をもつ独立採算制の事業体となった。
所主は体が弱かったこともあり、自分だけで会社経営の全部を見ることの限界を自覚して、早くから人に任せることを心がけてきた。任せると人は存分に創意と能力を発揮し、大きな成果を生んだ。そうした体験から、1927年に電熱部を設置する際にも、生産販売に関する一切を責任者に一任する方式を採っていた。
事業部制のねらいについて「自主責任経営の徹底」と「経営者の育成」の2つがあると所主は述べている。
当時こうした組織を持つ会社は他に例がなく、画期的な機構改革であった。パナソニックは「事業部制」を戦前から早くも採用し、経営の根幹をなす一大特色として定着させ、今日まで引き継いできたのである。
事業部制について説明する松下所主
モートルの開発、生産を開始
将来の需要を予見する
1933年7月に電動機部を設置し、モートルの開発に着手した。当時、モートル業界は重電メーカーが支配していた。そこへ家電製品を主体とする当社が、小型モートル分野に進出したのである。小型モートルを使っているものといえば、扇風機がある程度だった。当然のこととしてその成否が危惧された。
モートルの1号機
松下所主の予言が的中したことをうたう1962年のモートルの広告
モートル分野進出の新聞発表の際に、所主は記者の質問に次のように答えた。
「将来、一般家庭の文化生活が進めば、一家に平均10台以上のモートルが使われる日が必ず来ます。モートルの需要は無限ですよ」
翌年11月に第1号機が完成。1938年に「松下電動機」を設立し、積極的に事業を推進してきたが、戦後の家庭電化時代の到来で、所主の予見は的中することになる。
1935年にはナショナル蓄電池を設立して蓄電池分野に進出。続いて1936年にはナショナル電球を設立して電球の生産に着手した。