1946年(昭和21年)

戦後の苦難期を迎える

会社解体の危機に直面

戦後直ちに民需生産の再開に取りかかったが、1946年にはGHQ(連合国軍総指令部)の方針が厳しくなり、3月に制限会社の指定を受けてすべての会社資産が凍結されたのを始め、財閥家族の指定、賠償工場の指定、軍需補償の打ち切りなど、7つの制限を受け、会社解体の危機に直面した。

これらの制限の多くは、GHQの「財閥は解体する」との基本方針に基づいて指定された。それだけに、一代で築きあげた社主には納得できるものではなかった。4年間、50数回にわたって財閥でないとの抗議をくり返した。その結果、社主の生い立ちと当社のありのままの姿が理解され、同時に占領政策が徐々に緩和されてきたこともあって、ほとんどの制限が解除されるが、それは1950年の後半になってのことである。

この間、旧軍需会社の役員として受けた公職追放については、社主は抗弁の余地がないと一時は退任を覚悟した。しかしこのニュースは、1946年に結成された松下産業労働組合の組合員や代理店その他の関係先に大きなショックを与えた。「この時期に会社再建の支柱である社主を失うことは会社の崩壊を意味する。社主の追放解除をGHQに嘆願しよう」との声が期せずして起こった。当時は経営者の戦争責任を追及して追放運動を起こす労働組合が多かっただけに、この運動は当局に強い感銘を与えた。そして翌年、異例の処置として追放指定は解除された。

また1948年後半から、インフレを抑制するために取られた金融引締め政策によって、深刻な資金難が発生した。当社も多額の借入金、支払手形を抱えて、給与の分割払いをするに至った。

1949年にはドッジ・ライン(超均衡緊縮予算)が勧告され、デフレ恐慌へ突入、中小企業の倒産が相次いだ。組織の統合、販売部門の強化、人員整理などを行い、経営の立て直しを図ったが、7月には工場の半日操業に追い込まれ、年末には物品税の滞納王として社長の名が報道される事態となった。そして1950年には当時の従業員4,438人のなかから567人の待命休職者を出すまでになった。

この時期の日本は、悪性インフレの急進に加え、凶作による食糧不足に見舞われ、道徳の乱れ、人心の荒廃は目に余るものがあった。1946年11月、社主は「これが人間本来の姿なのか」と強い疑問を抱き「この世に物心一如の繁栄をもたらすことによって、真の平和と幸福を実現する道を探求しよう」とPHPの研究を始めた。

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松下社主の公職追放解除をGHQに訴えた嘆願書

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PHPの理念を普及するために発行されたPHP誌の創刊号