1973年(昭和48年)

松下幸之助会長が相談役に

[写真]

会長退任の挨拶会で、「ほんとうに皆さんありがとうございました」と前へ進み出て深々と頭をさげたあと、
退場する松下幸之助相談役と、高橋荒太郎会長、松下正治社長。

高橋会長、松下正治社長の新体制に

1973年7月、松下幸之助会長は、創業55周年を機に会長の職を退任、相談役に就任するとともに、高橋荒太郎会長、松下正治社長の新体制を明らかにした。そして、創業55周年と会長職引退を記念して、社会の人々のご支援に感謝するため、各都道府県に総額50億円の社会福祉対策資金を寄贈することを発表した。

松下相談役は、会長職退任に際して「やるべきことはやり尽くした。われながら『よくやった』と頭をなでてやりたい気持ちである」と感慨を語った。

高橋荒太郎会長が入社したのは、当社が株式会社組織に変わって間もない1936年であった。制度的な近代化が急務であった当時の経理責任者として、独特の創意工夫を加えた「経営経理制度」を確立。またフィリップス社との技術提携交渉、九州松下電器の経営基盤の確立、人事・総務の管理体制づくり、海外経営局の責任者として海外事業の推進などとともに、パナソニックの伝統精神の伝達者として、大きな功績があった。

石油ショックの中で

安定成長期の経営を模索

1971年8月、ニクソン米大統領によるドル防衛緊急対策が発表され、世界を揺るがさせた。世界各国が様々な対応を模索するなかで、日本は変動相場制に移行。同年12月、10ヵ国蔵相会議で合意が成立、1ドル=308円の固定相場制に復帰するが、その後も日本の貿易黒字は増え続け、1973年2月、再び変動相場制へ突入していく。

そのなかでわが社は、生産の合理化や新製品開発など経営体質の強化に努力したが、急速な円高による影響はまぬがれず、1971年は微増収、減益に終わった。

1973年10月の第4次中東戦争勃発を契機に、突如、世界を襲ったオイルショックは世界経済を再び激変させた。石油の不足と価格の高騰は先行き不安を強め、物価は暴騰し、その異常な混乱の中で各国は総需要の抑制にとりかかった。そして一挙に経済を減速させたため、世界的なトリレンマ(インフレ、不況、国際収支の悪化)が到来した。

日本ではいわゆる石油パニックが発生、物価は狂乱し、日用品の買いだめ騒動が起きた。原材料コストの暴騰は、生産の合理化など経営努力でカバーし得るものではなく、多くの企業が製品値上げ実施のやむなきに至った。

家電業界ではその後も需要が容易に回復せず、一時帰休や操業短縮がみられ、日本の貿易収支の赤字、戦後初のGNPマイナス成長と激変するなか、当社は1974年は増収減益、1975年は減収減益に終わった。長い間、高度成長のもとで繁栄をおう歌してきた日本経済はこれ以降、安定成長下での経営のあり方を模索していくことになる。

[写真]

社内でも電力、石油の使用量を削減した