1931年(昭和6年)

盛大に初荷を実施

[写真]

初荷風景

積極経営で不況を克服

1929年5月、かねてから建設中だった第2次本店・工場が完成した。新しい経営方針である綱領も制定し、いざ積極的な経営を始めようとしたとき、明治以来最悪の経済恐慌が起こる。

日本では浜口内閣が不況打開のためにデフレ政策を始めたところへ、ニューヨーク株式市場の大暴落を契機に勃発した世界恐慌が波及してきたのである。このため物価の暴落、企業の倒産が相次ぎ、工場閉鎖や解雇が行われ、社会不安が一挙に広がった。

わが社も売上が半減し、倉庫は在庫であふれた。病気療養中であった所主は、幹部から「この窮状を打開するためには従業員を半減するしかない」との進言があった時、思い悩んだ末、「生産は半減する。しかし従業員は解雇してはならない。給与も全額支給する。工場は半日勤務にし、店員は休日を返上して在庫の販売に全力を注いでほしい」と指示した。

この方針が伝えられると、自ずから一致団結の姿が生まれた。そして全員無休で販売に当たったところ、およそ2ヵ月で在庫を一掃し、逆にフル生産するほどになった。

不況の暗い空気を吹き飛ばそうと1931年の正月、「初荷」を実施した。これは前年に名古屋支店が実施して好評だったので、この年から全社的行事として行ったもの。交通事情悪化のため、1965年以降は中止になった。

ラジオの自社生産を開始

[写真]

苦心のすえ完成したラジオの1号機

故障のないラジオを適正な価格で

1925年に東京放送局が始めたラジオ放送は急速に普及し、1930年には聴取契約者数が70万を超えた。しかし当時のラジオは機能的に不十分で、聴取者はよく故障に悩まされた。所主もたまたま聞きたい放送がラジオの故障で聞けなかったことに憤慨し、「故障の起こらないラジオ」を作ろうと決心した。

1930年8月、あるラジオメーカーと提携して国道電機を設立し、ラジオの生産販売に着手した。ところが故障・返品の続出である。調査してみると、ラジオ技術のある専門店では自店で検査・調整をした上でお客に販売していたが、一般の電器店では鳴らなければすぐに代理店に返品していたのである。所主は「やる以上は、一般の電器店でも扱えるラジオを作ってこそ意味がある」との信念から、翌年3月に国道電機を直営にし、研究部の中尾哲二郎にラジオの開発を指示した。

それから3ヵ月後、苦心の末、三球式ラジオが完成した。ちょうど募集中の東京放送局のラジオセットコンクールに応募したところ1等に当選した。

このラジオを45円で発売した。当時、ラジオの価格競争が激化し、25~30円が一般的な価格であった。しかし所主は、競争にとらわれず適正な利潤を確保するのが事業の正しいあり方であり、業界の正しい発展に寄与するとの信念から、この価格を決定した。そのころ、ある商社がダンピングで競争メーカーを倒し、市場を独占して不当な利益を収めたやり方に対し、所主は激しい公憤を感じていたからである。

また当時、ある発明家がラジオの重要部分の特許を所有し、設計上大きな障害になっていた。所主はこの事態を憂慮し、1932年10月にこの特許を買収し、同業メーカーに無償で公開した。これは業界全体の発展に大きな貢献をする快挙と、各方面から称賛を受けた。