解放の歴史

電池事業の歴史は、さまざまな困りごとから人々を解放した歴史でもありました。
ここでは、その代表的な事例を紹介します。

画像:電池事業の代表的な事例を年表で紹介。1923年に電池事業創業。1947年にSANYO創業。
1923年は、暗闇からの解放。砲弾型電池式ランプ「エキセルランプ」~新商品を生み出す、生活者視点~

家庭に電灯が普及しつつあった大正時代(1912~1926)になっても、自転車の灯火はろうそくや石油ランプが主流でした。仕事で自転車を使う幸之助も日が暮れるとろうそく・ランプを灯しました。しかし風ですぐ消えて、何度もマッチで火をつけることになります。かつて自転車店に奉公し、何となく自転車関係のものを作りたいという気持ちを持っていた幸之助は、この不便の解消に着手します。
「途中で消えない明るいランプなら売れるに違いない。」当時の電池式ランプは電池が3時間しか持たず実用になりません。そこでこれを改良すべく電池と豆球を工夫し、半年間のうちに約100個もの試作品を作りました。
1923年、遂に30時間以上点灯し続ける画期的な「砲弾型ランプ」が完成。エキセルランプの名で売り出されたこの電池式ランプは、小売店での実物宣伝を通じて大ヒットとなり、3年後には専用工場を建てるまでになったのです。このランプに用いる乾電池を買い入れ、エキセル乾電池の名で販売したのが、電池事業の始まりです。

写真:1923年、砲弾型電池式ランプのホーロー看板
1923年砲弾型電池式ランプのホーロー看板。
松下電器における屋外ポスター広告の始まり。
1963年と1969年は、短寿命からの解放。ナショナルハイトップとナショナルネオハイトップ~安価で信頼性・安定性の高い乾電池を徹底追求~

ナショナルハイトップ

電気カミソリ、玩具、マイクロテレビ等、これまでの乾電池では使用できなかった応用分野を開拓し、需要を飛躍的に拡大させました。

ナショナルネオハイトップ

1969年7月、世界最高寿命を誇る「ナショナルネオハイトップ」の開発に成功しました。

松下電器が独自技術で世界水準の乾電池ナショナルハイパーを発売したのは1954年のこと。その後、経営トップから「応用範囲が広く、長持ちする電池を作るように」と指示がありました。これを受けて、1963年、封口板をアスファルトからポリエチレンに、亜鉛缶を包む紙筒を塩化ビニルチューブに、正極材を天然二酸化マンガンから電解二酸化マンガンに改良した「ナショナルハイトップ」が誕生。使用中の液漏れはほとんどなくなり、放電特性はハイパーの1.5倍、保存特性は3倍と大幅に改善されました。ハイトップは電気カミソリや電卓など幅広い範囲に使われ、人々の暮らしを豊かにしました。これが口火となり、高性能乾電池の開発が一段と加速されました。
1969年、ハイパーより3倍長持ちする世界最高水準の「ナショナルネオハイトップ」を発売します。プラス極とマイナス極の間にあった電解液の層(糊の層)をセパレーターを用いることによって薄くし、その分二酸化マンガンなどプラス極物質の量を増やすことが出来たのです。使用機器の主役はラジカセでした。
このころ、電卓などと同様にラジカセも急速に普及していきます。乾電池は、主力商品の一つとなるオーディオ機器の市場拡大、ひいては若者文化の進化にも寄与したのです。以降も松下電器は日本での市場創出に貢献すると同時に、シェアトップの座を獲得し、製造工程でも、全行程の自動化とスピードアップを図り、毎分600個以上生産できる高速ラインを導入、17ヵ国で943件の特許・実用新案を取得しました。

1964年は、使い捨てからの解放。パナニカ~コードレス・情報通信機器の発展に貢献~

パナニカ/充電器

ニカド電池は1970年~1980年代にかけて電動工具、ポータブルVTR、ビデオカメラなどの応用品に使用され、コードレス時代を牽引しました。

小型二次電池を代表する密閉型ニッケルカドミウム電池(ニカド電池)は、三洋電機が1957年に、松下電器は1959年に開発に着手しました。さまざまな課題を克服し、三洋電機が1963年に「カドニカ」と名付けたニカド電池を応用した業界初の充電式トランジスタラジオを発売したのが始まりです。一方、松下電器は1970年に「パナニカ」を発売します。
その後1985年には従来比30%以上エネルギー密度を向上させた新型高容量のパナニカ蓄電池「SMシリーズ」を発売し、機器のポータブル化をもたらしました。この技術が突破口になり、ビデオカメラ、コードレス掃除機、携帯電話に採用されるなど、コードレス機器の普及、用途展開に貢献しました。

「お客様大事」の文化で築いたユーザー対応力

容量・入出力・寿命・信頼性のバランスをいかに取るか。これは電池メーカーの技術の差につながる重要なノウハウです。1989年、納入先のビデオカメラ用電源で漏液による市場クレームが発生しました。漏液は、世界最高容量のニカド電池「SM30」を他社に先駆けて商品化した際、寿命を最重要特性として考えるあまり、電解液を若干多くして電池設計をしたことが原因でした。
納入先から「3か月で解決しなければ、他社にすべて変える」との条件が課せられました。このとき、松下電器は、関連部門が一丸となり、24時間態勢で改良に取り組み、3か月以内で何とか顧客の要求を満たす商品を作り上げることができました。これを可能にした要因の一つは、納入先から「われわれが松下電器のニカド電池を認定したのだから、われわれにも責任がある」と事業部に3名が常駐し、心をひとつにして評価解析に取り組んだことです。
1989年7月に商品を再納入するときは、懺悔の気持ちとして湘南海岸で大地引網を開催し、納入先から80名、松下電器から200名が参加。グローバルな視点で社会貢献に頑張ることを誓い合いました。松下電器の開発・製造・販売の各部門と顧客が一体となり、全員で互いのブランドを汚さないよう、尊重し合いながら真剣に努力した結果でした。まさに「雨降って地固まる」の代表的な事例と言えます。

写真:1987年、パナニカ電池SM30のラインアップ
パナニカ電池SM30のラインアップ(1987年)
1994年は、大きさ、重さ、パワー不足からの解放。高容量リチウムイオン電池~車載・産業分野への転地を加速~

高容量リチウムイオン電池

高容量なリチウムイオン電池により、従来の電池の課題であった大きさ、重さ、パワー不足から人々を解放し、ノートパソコンなど電子機器が普及しました。

リチウムイオン電池は、軽量・高エネルギー密度という特長を生かし、それまでの主役であったニカド電池やニッケル水素蓄電池をまたたく間に凌駕し、小型二次電池の主役になりました。ビデオカメラ、携帯電話、ノートPCなど、大容量の二次電池を求める製品が次々に出現したことも、リチウムイオン電池市場を急速に拡大させる大きな要因となったのです。
松下電器は2006年、業界に先駆け正極ニッケル系の材料を用いた「第2世代イオン」を実用化しました(開発当初は正極にコバルト系材料、負極に黒鉛を用いた「第1世代イオン」が主流)。リチウムイオン電池は、可燃性の有機溶媒を電解液に使用しており、容量と安全性・信頼性の両立が重大な技術課題で、特にニッケル系正極は実用化が困難だと言われていました。そこでニッケル酸リチウム主体に、ニッケルの一部をコバルトやアルミニウムなどで固溶置換した複合酸化物の組成最適化とHRL(Heat Resistance Layer)と呼ばれる極板間(負極とセパレータの間)への耐熱層形成技術の開発により、高容量と安全性を両立したリチウムイオン電池の開発に成功しました。
HRLは極板表面に絶縁性金属酸化物からなる耐熱層を形成し、異物によるショート熱暴走を防ぐ技術です。この安全技術の採用により、リチウムイオン電池のエネルギー密度を飛躍的に向上させました。

1997年と2008年は、環境負荷からの解放。環境配慮型車両(HEV)向け電池~EV市場の拡大に向けて~

左から「1865」「2170」「4680」前半2桁は直径(18mm/21mm)、後半2桁は高さ(65mm/70mm)を表しており、現在筒径を一気に2倍以上に拡大した「4680」を開発しています。

環境対応車に向けた車載用の二次電池として、パナソニックはニッケル水素電池とリチウムイオン電池を開発、販売しています。このうち、EV市場で主流になっているのが車載用リチウムイオン電池です。
車載/産業用リチウムイオン電池は、2009年に高容量ニッケル系正極の電池を米国のベンチャー企業と最初のEV用円筒形の電池として共有契約を締結したことに始まります。その後、環境問題やエネルギー問題への関心が高まり、ガソリン車やディーゼル車に代わる自動車の開発が本格化しました。車載/産業用電池は巨大な市場規模が見込まれるため、その開発競争は熾烈を極めていました。
こうした中で、当社はHEV用ニッケル水素電池やHEV・PHV(プラグインハイブリッド自動車)、EV用リチウムイオン電池を開発、生産を開始し、電気自動車等の普及促進に貢献しています。

関連リンク

パナソニック ミュージアム