NPO法人 プレーパークせたがやの組織基盤強化ストーリー

NPO法人 プレーパークせたがや 子どもの遊び第一、プレーパークのパイオニア 40年のノウハウ活かした研修事業で赤字脱却

全国に先駆けて常設の“冒険遊び場”を開設したNPO法人プレーパークせたがや。
40年近く蓄積してきたノウハウをもちながら、事業拡大に伴う経営難に陥った彼らが組織基盤強化の手法を用いながら、どう変わっていったのか。
3年にわたる組織基盤強化の取り組みを聞きました。
[THE BIG ISSUE JAPAN ビッグイシュー日本版 第238号(2014年4月15日発行)掲載内容を再編集しました]

日本初の“冒険遊び場” 自分の責任で自由に遊ぶがモットー

事務局長 三輪英児さん

プレーパークせたがやの活動は、ある夫婦の提案から始まった。そのいきさつを事務局長の三輪英児さんが説明してくれた。

「1975年、わが子の遊ぶ姿を見て、子どもが自由に遊べる環境の少なさに疑問をもった夫婦が、ヨーロッパの“冒険遊び場”に着目しました。やがて、二人の考えに共感した地域住民や行政が力を合わせ、世田谷区内に期間限定の“冒険遊び場”が誕生。そして国際児童年の1979年、ついに日本初の常設“冒険遊び場”羽根木プレーパークがオープンしました」

プレーパークは「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーにした遊び場で、遊具は地域ボランティアからなる「世話人会」と「プレーリーダー」が手づくりしている。現在、世田谷区内には4つのプレーパークがあり、世田谷区からの委託事業というかたちでプレーパークせたがやと世話人会が運営しているが、それでも足りず、遊具を載せた「プレーカー」が区内各所でプレーパークの出前を行っているという。

事務局の渡辺圭祐さんによれば、「プレーリーダー」は子どもと遊んだり、遊びの環境を整備したりするだけでなく、地域の人同士を結びつけるコーディネーターの役割も果たす。

その一環として2010年には、乳幼児を抱えるお母さんの公園デビューをサポートする拠点「そらまめハウス」を羽根木プレーパーク内に建設した。
「ところが、当初500万円を予定していた建設費が800万円もかかり、事業の人件費もかさんだ結果、団体の貯金を使い果たしてしまいました。手元には運転資金しかなくなり、ついに助成金頼りの組織運営にメスを入れざるを得なくなったのです」と、三輪さんは当時を振り返る。

事務局 渡辺圭祐さん

法人化で事業が5倍に膨れ上がり 資金不足と人材不足に悩む

市民運動から始まったプレーパークせたがや。2005年に組織をNPO法人化した頃から、事業の数が増え、プレーパーク以外の事業は5倍に膨れ上がった。
現在は、「乳幼児や思春期の子どもと親の支援事業、また年に1度は40人くらいの子どもたちを連れて、キャンプ場も何もない大自然の中で鶏をさばいて食べたり川遊びをしたりして24時間自由に過ごすキャンプなども実施しています」と三輪さんは言う。

事業数の増加につれて財政規模は拡大し雇用する職員数も増えたものの、助成金や単年度予算の委託金に頼る不安定な運営が続き、2010年に財政危機に陥った。そこでプレーパークせたがやは「Panasonic NPOサポートファンド」の助成を受け、2011年から2013年までの3年間、組織基盤強化に取り組むこととなった。事務局の大垣内弘美さんは、応募当時の様子をこう話す。

「コンサルタントによる組織診断の前に、広報も人材育成も資金調達もと、やりたいことを欲張りすぎ、優先順位をつけたほうがいいと指摘されました」

事務局 大垣内弘美さん

理事 早川直美さん

助成1年目はまず組織診断を行い、その結果、浮き彫りになったのは「突発的な事業拡大による人手不足」「安定的な財源の確保の必要性」「人材を確保する資金不足」といった“自分たちもうすうす感じてきた課題”だったと理事の早川直美さんは言う。
「同じことを組織内の人間に言われても聞く耳をもたなかったかもしれませんが、第三者から客観的に指摘されたことで納得もいったし、いいカンフル剤になりました」

そしてボランティアの組織力を強化するワークショップを開催し、事務局の強化にも取り組んだ。その経緯は三輪さんによれば、こうだ。
「組織診断では、そもそも事務局長という役職がないことをコンサルタントから問題視されました。しかし、私たちの組織は現場を支えるボランティアだけで200人もいて、彼らからの情報を一人で収集して統合するのは至難の業に思えました。そこで事務局をファンドレイジング、広報、実務といった役割ごとのチーム体制にし、全体を見渡す責任者として私が事務局長になりました」

これにより、「合意形成」も効率的に行われるようになったと大垣内さんは言う。
「4つのプレーパークが一緒になって一つのNPOを立ち上げたこともあり、何をするにも4つの現場の合意をそれぞれ取っていたため、この議論にいったい何ヵ月かけているのだろうと思うことがしばしばでしたが、チーム体制にして、何か相談事があれば事務局会にはかるようにしたところ、情報整理と悩みの共有が円滑にできるようになりました」

ノウハウや事例をまとめた冊子と 研修センターの開設で赤字減少

2年目は、スタッフやボランティアの“内部研修”と、子どもの遊びの世界を理解してもらうために、外部のさまざまな企業、団体に向けた“外部研修”を行う「研修センター」の開設に取り組んだ。

「40年近くプレーパークを続けてきた老舗団体なので、全国のプレーパーク運営者からの相談や、プレーリーダーの講演依頼などは、これまでも受けてきました。しかし、コンサルタントから指摘されるまでは、自分たちのノウハウを体系立てて商品化し、安定した自主財源につなげることができるとは考えてもみませんでした」と三輪さんは言う。

プレーパーク運営のノウハウや事例をまとめた『冒険遊び場づくり物語』『気がつけば40年近くも続いちゃってる、住民活動の組織運営。』という2冊の冊子は「研修センター」でテキストとして使われているほか、それぞれ500円で販売もされている。

設立から3年目に本格稼働させる前提で建てた「研修センター」事業による収益の目標額は350万円。2年目の13年度は200万円を超え、目標達成に近づきつつある。さらに、助成に応募した2010年、2011年と2年続けて年間300万円程度出ていた赤字も減り、近々ゼロになる見込みだという。

大垣内さんによれば、近頃は公園内の禁止事項も多く、社会のまなざしも厳しい。公園の運営者の中には、活性化に頭を悩ませている人も少なくない。
そんな中で、プレーパークせたがやはどのようにして突破口を見つけていったのか? 研修への関心は高まり、今では各種セミナーなど自主企画にも力を入れ始めているという。 一方で、新たな課題もある。
「企画を立てることで、子どもの育ちや遊びの環境に関心がある層などが集まるようにはなりましたが、限られた人手の中で、どうすればさらに人を呼べるか。一度参加した方に広く宣伝してもらう方法なども検討していきたい」と渡辺さんは話す。

広報担当 齊藤何奈さん

また、地域ボランティアとしてプレーパークの運営に25年かかわり、広報を担当する齊藤何奈さんは
「研修センターとは別に、現場レベルでは、上の世代から受け継いだ自分たちの経験は次の世代に無償で伝えていきたいという思いがある」と言う。NPO法人としての組織づくりと現場の組織づくりを、どう分けて考えるか。これも今後の課題だ。

3年を通して、組織基盤強化のプログラムに直接かかわったメンバー以外の意識も大きく変わってきたと早川さんは感じている。
「組織運営を“わがこと”として考え、『組織基盤』という言葉も日常的に出てくるようになりました。たくさんの人がかかわり、いろいろなことを言い合いましたが、子どもの遊びを第一に考えるという大事な軸の部分がぶれたことは一度もありませんでした」

そして何よりも、「世田谷じゅうの子どもたちにプレーパークのスピリットを届ける」というビジョンを全員で再確認できたことが、一番の収穫だったそうだ。

NPO法人 プレーパークせたがや
1975年、1組の夫婦が投げかけた疑問がきっかけとなり、79年に日本初の常設の冒険遊び場「羽根木プレーパーク」を開設。以来、世田谷区内の4ヵ所でプレーパークを運営し、05年2月のNPO法人化と共に世田谷区からの直接委託事業となる。このほか、プレーカーによる遊びの開拓事業、乳幼児や思春期の子どもと親の支援事業などを通して遊び場の拠点・子どもの居場所づくりを進めている。
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